初詣で赤間神宮へ。
赤間神宮単体の記事が無かったので、
今回記事にしてみました。
赤間神宮は阿弥陀寺が前身とされますが、
阿弥陀寺の創建には諸説があり、
壇之浦の戦いの翌年とも、
その6年後ともされています。
とにかく安徳天皇の御堂が建立され、
安徳天皇の母建礼門院の乳母の娘が、
尼となり開山したとされており、
阿弥陀寺の当初は尼寺でした。
※いつから尼寺でなくなったのかは不明。
以後は勅願寺として旅人の賽銭や、
宝物殿の拝観料による収益によって隆盛。
梅ノ坊、奥ノ坊、西ノ坊、青蓮坊、
円福坊、多聞坊と、
境内社鎮守八幡宮を構えていました。
明治に入ると阿弥陀寺は廃され、
[天皇社]と改称。
更に赤間宮、赤間神宮と変わっています。
「水天門」。
下関からはもちろん、
対岸の門司からも見える水天門。
竜宮城をイメージして建立された楼門です。
「阿彌陀寺陵」。
水天門の左手に位置する安徳天皇陵。
壇之浦の戦いに敗れ平家は滅亡。
安徳天皇は二位尼に抱き抱えられて入水し、
翌日に漁師によって亡骸が引き上げられ、
ここに埋葬されました。
普段は閉じられている扉。
正月だから開けられていたようです。
御陵に参拝後、水天門へ戻る。
門脇に阿弥陀寺があった事を示す碑が・・。
「高野山無量寿院 阿弥陀寺跡」碑。
阿弥陀寺の痕跡は全く残っていませんので、
これが唯一寺があった事を示しています。
「赤間神宮 拝殿」。
初詣客で賑やかな拝殿。
大安殿と後方の内拝殿の二重になっており、
その間には水が張られています。
先帝祭の上臈参拝もここで行われます。
※記事はこちら。
ちなみに先帝祭は明治以前は先帝会でした。
赤間神宮拝殿向かって右側へ。
「日本西門鎮守八幡宮 拝殿」。
赤間神宮の摂末社。
平安時代前期の貞観元年に行教和尚が、
宇佐から岩清水へ分霊を勧請する際に、
創建された鎮守八幡宮です。
源平以前からあったわけで、
阿弥陀寺よりも由緒は古い。
阿弥陀寺が創建されてからは境内社となり、
大内氏や毛利氏などに尊崇されました。
赤間神宮拝殿の向かって左側へ。
「耳なし芳一堂」。
怪談「耳なし芳一」の主人公芳一のお堂。
知らない人はいないとは思いますが、
「耳なし芳一」は以下のような話。
阿弥陀寺に芳一という琵琶法師がおり、
その琵琶の音色が称えられていましたが、
壇ノ浦の戦いに敗れた平家の亡霊も、
その音色を聞きたいと姿を現しました。
芳一が亡霊に手をひかれて行くと、
大勢の人達が大広間で座っているようで、
「壇ノ浦の合戦の物語を弾奏せよ」と、
奥の暖簾から声が掛かります。
弾奏を始めると居並ぶ人々は涙を流し、
嗚咽の声を抑えきれずにいる様子。
芳一が琵琶を弾じ終えると、
「今日は実に満足した。
又明日も明後日も、
7日7夜の間は必ず弾じてくれ」
と頼まれました。
こうして毎夜、芳一が外出するを、
阿弥陀寺の僧らも気付き、
芳一を陰から監視していると、
夜中にすっと立って外へ出ていく。
僧らは後を追いかけると、
芳一は立ち並ぶ墓石の前で琵琶を弾く。
僧らは驚いて芳一に駆け寄り、
演奏を止めさせて寺へ連れて帰ります。
事情を聴いた和尚は驚いて、
亡霊が芳一の琵琶を気に入り、
あの世へ連れて行こうとしていると、
亡霊が来ても返事もするなと申しつけ、
体中に般若心経を書き込みました。
その夜に亡霊が芳一を迎えに来ると、
芳一の姿が見えない。
亡霊は「芳一」と呼びかけますが、
芳一は言いつけを守って返事をしない。
「芳一は何処へ行ったのであろう?
ああここに耳だけある。
せめてこの耳だけでも持って帰ろう」
とつぶやき、
冷たい手で芳一の耳をもぎ取りました。
耳に経文を書くのを忘れていたのです。
芳一は両耳を失くしましたが、
命だけは救われました。
この事以来、全山をあげて法要を行い、
平家の亡霊を弔うようになったという。
耳なし芳一は小泉八雲の「怪談」に、
収録された怪談話で、
元ネタは一夕散人著「琵琶秘曲泣幽霊」で、
内容は殆ど同じものだとのこと。
この話はフィクションとされていますが、
一夕散人が創作したものか?
何らかの元ネタが阿弥陀寺にあったのか?
阿弥陀寺が廃寺となって資料が殆ど無い今、
それを知る術はありません。
「平家一門之墓」。
平家一門は壇之浦に沈んでいますので、
これはもちろん供養塔。
これらはすぐに建てられたものではなく、
慶長期に建立されたものだという。
阿弥陀寺は安徳天皇を弔う為のもので、
平家一門を弔うものではなかったで、
当たり前といえば当たり前でしょうか?
関門海峡での海難事故等で、
平家の亡霊の噂などが流れた為、
新たに建立されたものとのこと。
仮にモデルとなる人物がいたとすれば、
この墓の前で琵琶を演奏したのでしょう。
従って耳なし芳一は江戸期のお話。
さて、幕末の阿弥陀寺。
吉田松陰は北浦巡視の際に参拝し、
絵説を聞いて宝物を見学しました。
一時奇兵隊の屯所にもなっており、
小倉戦争時に砲台も設置されています。
※記事はこちら。
維新後は天皇陵が寺院では良くないと、
阿弥陀寺は廃されて天皇社となり、
住職が還俗させられて宮司となりましたが、
程なく白石正一郎が2代目宮司に就任。
明治8年に官幣中社に列格し、
昭和15年に官幣大社に昇格して、
赤間神宮に改称しました。
初代宮司の元阿弥陀寺住職の大司氏の事と、
白石の2代目就任の詳細は不明ですが、
僧侶が簡単に宮司になれないでしょうし、
白石は元々が神道の信者であった為、
ふさわしかったのではないでしょうか?
■関連記事■
・下関市豊田町 安徳天皇西市御陵墓参考地
安徳天皇はここに眠っているという。
・下関市阿弥陀寺町 白石正一郎の奥都城
赤間神宮2代宮司白石正一郎の奥都城。
・源平Night in 赤間神宮
赤間神宮での夏の夜のイベント。