下関市にある豊田湖はダムで出来た人口の湖。
一級河川の無い下関は慢性的な水不足であった為、
木屋川の上流にダム湖を建設しています。
豊田湖は、冬はワカサギ釣り、夏はキャンプなど、
意外に行楽客も多い湖。
湖畔には安徳天皇を安置したとされる陵墓があります。
宮内庁治定の阿彌陀寺陵(赤間神宮)の他、
5ヶ所の御陵墓参考地もあり、
各地に安徳天皇の墓と伝わる陵墓が存在しますが、
いずれも各地に落ち延びた伝説が元になっているので、
信憑性は薄いでしょう。
通説では壇ノ浦の戦いの翌日、海に沈んだ御遺骸は、
小瀬戸で鰯漁を営む中島家の網に掛かっており、
その陵墓を造って安置したのが阿彌陀寺陵で、
現在の赤間神宮境内にあります。
で、今回の豊田湖湖畔の陵墓の由来ですが、
壇ノ浦の戦いの後、源義経は三種の神器を捜索しました。
すぐに八咫鏡、八尺瓊勾玉は見つかったのですが、
どうしても草薙剣が見つからない。捜索範囲を広げ、
日本海の漁師にまで触れを出して行方を追います。
しばらくすると三隅の澤江浦の漁師が、
安徳天皇らしき子供の遺体を引き揚げたと情報が入り、
義経が行ってみると、草薙剣は無かった。
仕方なくその遺体を網のまま御棺に移して運びましたが、
何故かこの地で御棺が重くなって運べなくなったので、
埋葬したとの事。それが西市御陵墓参考地です。
豊田湖上流付近(安徳天皇西市御陵墓参考地の場所)
「安徳天皇西市御陵墓参考地」。
他の天皇御陵墓と同様に柵がしてあって中には入れない。
奥は山の様に盛り上がった円墳のようです。
「御衣濯の池」と「古刀出土の地」。
豊田湖はダム湖なので、もちろん当時はありません。
ここから左前方30m崖下の湖底に池があったようで、
安徳天皇と思われる御遺体の衣をそこで洗ったのだとか。
また、前方50mの湖底で古刀が数本出土しています。
墳墓の側には数基の石碑があります。
この墳墓の由緒など記されているのですが、
ここまで読んで幕末維新関係ないと思ったあなた。
甘いな・・・。
左側の背の高い自然石の石碑が関係あるんですよ。
「木戸孝允詩碑」。
木戸孝允もここを訪れているようで、
下記の漢詩を残しています。
渓流捲巨石 山岳横半空
寿永陵辺路 団長杜宇声
訳:ごうごうと音をたてる水は、
大きな岩井市をかみつくように流れ、
山々は累々として、天の半端に横たわっている。
今、こうした景観の地、安徳帝陵の道を通っていると、
突然ほととぎすの美しい音色が聞こえてきたが、
その声は、はらわたをえぐるような響きに聞こえた。
木戸は明治8年、この詩を光雲寺に泊まった際に、
作ったと説明書きがされていました。
※どこの光雲寺かよくわかりません。
寿永陵というのが安徳天皇陵をさす言葉ですが、
寿永は元号で源平の争いのあった時代。
で、この陵墓が安徳天皇のものであるのかといえば、
僕の個人的意見では違うんじゃないかと思います。
壇ノ浦で沈んだ安徳天皇が、
遥か長門市まで流れるとはどうも考えにくい。
やはり小瀬戸で網に掛かった御遺骸の方か信憑性があります。
ただ、澤江浦で子供の遺体が引き上げられたのは本当でしょう。
安徳天皇ではなく、どこかの高貴な家の子供かもしれませんし、
もしかしたら朝鮮半島の貴族の子供かもしれませんね。
たぶん高貴な衣を身に付けていたんでしょう。
まあ、大昔の事ですから、何が本当かはわかりませんけど。
■関連記事■
・先帝祭 上臈参拝
上臈が赤間神宮に詣ります 。
・ 京都府京都市 伏見桃山陵
明治天皇の御陵。