椋本宿は伊勢別街道の宿場町。
芸濃町椋本周辺。緑の線が伊勢別街道で、
青くぼかした辺りが椋本宿跡。
西側から散策。
「仁王経 上の塔(左)」、
「駒越翁彰功碑(右)」。
椋本宿の東西の入口には、
仁王経と刻まれた碑が建てられ、
宿内に疫病が入るのを防いでいました。
隣は駒越五良八の偉業を称える碑。
「横山池」。
椋本宿跡の西側にある農業用の溜池。
椋本の庄屋を務めた駒越五郎八は、
水田に水を安定供給出来るように、
津藩に掛け合って許可を得て、
小さな溜池だった横山池に私財を投じ、
巨大な溜池を完成させました。
この工事の完成により水田が開墾され、
年間500俵の米が増産されたという。
「西町」。
椋本宿を京都側から入ると西町。
街道筋にしては広い通りですが、
後に拡張されたものではなく、
火災の延焼を防ぐ防火の為。
通りは大きな木造住宅が並びます。
「枡形」。
焼き切りとも呼ばれる枡形も、
延焼を防ぐ為のもの。
仮に西町で火災が発生した際は、
枡形付近の民家を取り壊して、
中町へ火が移らないようしたという。
「中町」。
メインの通りであった中町。
本陣、脇本陣があったようですが、
情報が乏しくよくわかりません。
ちなみに上記した駒越五郎八は、
脇本陣を務めていたとされますが、
既に屋敷は取り壊されているとのこと。
巴屋製菓舗脇の道に寄り道。
椋本の町名の由来となった大椋へ。
「霊樹大椋」。
1200年前にも既にあったとされ、
坂上田村麻呂の家来野添大膳の親子が、
この椋の下に住んだとされており、
これが椋本村の始まりとされます。
街道筋に戻って更に進む。
「道標」。
中町から横町への曲がり角にある道標。
自然石の道標が江戸期のもので、
[左さんくう道]と大書きされています。
木柱の道標は明治期に設置されたもので、
現在のものは2代目とのこと。
「横町」。
大きな枡形となった縦の通りは横町。
高札場等があったようですが、
詳しくはわかりません。
「角屋旅館 本館」。
横町から新町に入る角にある旧旅館。
平成25年まで営業していたようで、
全国各地の伊勢参講札が掲げられ、
参宮道の旅館の雰囲気を残しています。
国指定有形文化財。
「新町」。
約900m程の街並みの新町。
相変わらず大きな木造家屋が並びます。
道幅も同じく広くとられており、
これも延焼を防ぐ為とのこと。
「仁王経 下の塔」。
椋本宿の東の入口に建てられて碑。
同じく疫病が入るのを防ぐ為のもの。
仁王経は上巻は6583字、
下巻は5608字あるようで、
これを小石に1字ずつ書写して、
碑の下に埋めているとのこと。
白石正一郎は安政3年の伊勢詣の際、
ヱビス屋五郎八の宿に宿泊しています。
この五郎八とは駒越五良八??
駒越家の屋号が判りませんが、
もし蛭子屋、戎屋なら同一人物でしょう。
また河合継之助も椋本に宿泊してますが、
こちらはどこに泊ったか不明。
椋本宿には京都方面の参詣客が訪れ、
最盛期には約20軒の旅籠があったようで、
大変賑わいを魅せていたようです。
伊勢別街道の中間地点でもありますので、
宿泊客も多かったのかもしれませんね。
■伊勢街道/別街道/本街道の宿場町
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