圓光寺は河芸町上野にある臨済宗寺院。
延文3年(1358)に創建されており、
後光厳天皇の勅願寺となっていました。
応永4年(1397)には足利義満の祈願所となり、
以後は歴代足利将軍が帰依。
元亀年間(1570-1573)に分部光嘉により、
現在地に移されたとされています。
光嘉は圓光寺を分部家の菩提寺とし、
父や実子の墓も建てていますが、
分部家の大溝転封で圓光寺も移転。
大溝に移った圓光寺は分部家菩提寺として、
現在も大溝で続いていますが、
旧圓光寺も紀州藩から寺領を与えられ、
現在地に存続しました。
「本堂」。
入母屋造本瓦葺の本堂。
本尊は宝冠釈迦如来像です。
本堂前には沙羅双樹の木があり、
季節には白い花を咲かせるとのこと。
「分部光嘉公(左)」、
「分部光勝公(左2)」、
「分部光嘉公室(右2)」、
「分部光高公(右)」。
大溝藩分部家初代当主分部光嘉の墓、
光嘉の長男分部光勝の墓、
光嘉の正室於万の墓。
光嘉の養父分部光高の墓。
光嘉は伊勢の豪族細野藤光の次男で、
分部光高の養嗣子となり、
光高の妹で養女の於万を娶りました。
分部家は長野具藤に仕えていましたが、
織田信長の伊勢侵攻で家中は分裂。
分部家は信長に臣従しますが、
永禄12年(1569)の北畠家との戦いで、
光高は戦死してしまいます。
家督を継いだ光嘉は織田信包の配下となり、
安濃津城の築城指揮で功績を挙げ、
第二次天正伊賀の乱でも戦功を挙げました。
本能寺の変後に信包は羽柴秀吉に仕え、
後に近江に所領を移されますが、
光嘉は伊勢に残って秀吉の直参となります。
秀吉の死後の関ケ原の戦いでは、
東軍として安濃津城で戦いますが、
西軍の猛攻に屈して降伏。
高野山で謹慎していましたが、
戦後はその奮戦が家康に認められて、
伊勢上野2万石を与えられました。
光嘉の長男光勝は関ケ原の前年に病死し、
外孫分部光信が養子となり家督を相続。
後に大溝藩に移封されています。
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初代当主分部光嘉の本墓。