大溝藩分部家初代当主分部光嘉の墓は、
津市河芸町上野の圓光寺にありますが、
本墓は近鉄名古屋線の線路脇にあり、
その墓所は華林廟と呼ばれています。
「華林廟」。
線路脇にある分部光嘉の墓所。
線路は後に引かれたものですが、
よくぞ移転されずに残ったものです。
大溝藩4代藩主分部信政により、
墓修祭が行われたようで、
それまで荒れ果てていたものが、
立派な廟所となったようです。
往時は霊屋もあったと思われますが、
現在は墓碑と玉垣、燈籠等が残っています。
「香徳院殿 封塚」。
大溝藩分部家初代当主分部光嘉の墓。
光嘉の法名は香徳院殿華林浄栄大居士で、
その法名より華林廟となったようです。
関ヶ原で伊勢の諸将は東軍に与しますが、
光嘉は居城の上野城を放棄して、
富田信高の居城安濃津城に入城し籠城。
西軍3万を1700名の寡兵で迎え撃ち、
光嘉は毛利家家臣宍戸元続と一騎打ちし、
双方が重傷を負いました。
健闘虚しく多勢に無勢で救援の見込みなく、
安濃津城を開城して降伏し、
光嘉は信高と共に剃髪して高野山で謹慎。
関ヶ原の戦いが東軍勝利で終了すると、
奮戦が認められて所領を安堵されると共に、
1万石を加増されていますが、
宍戸元続から受けた傷が悪化したようで、
翌年に死去してしまいました。
遺骸はこの地に葬られており、
後に立派な廟所となったようです。
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