四天王寺は津市栄町にある曹洞宗寺院。
推古天皇の勅願で聖徳太子が建立したとされ、
また用明天皇の時代に聖徳太子が、
物部守屋に敗れた際に四天王尊像を刻み、
勝利すれば仏塔を作り仏法を広めると誓願。
そして見事勝利した為に誓願に従い、
四つの四天王寺を建立したとされ、
そのひとつが大坂の四天王寺であり、
この津の四天王寺とされています。
「本堂」。
以前の本堂は空襲によって焼失。
空襲では山門と鐘楼を残し全焼しており、
現在の本堂は52世密禅定行和尚が、
托鉢行の末に再建したものとのこと。
本尊は平安時代造立の薬師如来像で、
物部美沙尾という女性が病気平癒の為、
仏師物部吉守らに造らせものという。
四天王寺は安濃津城の戦いで焼失しますが、
藤堂高虎の正妻久芳院の菩提寺として再興。
久芳院は当地に葬られました。
歴史あるお寺だけに立派な五輪塔がずらり。
被葬者は不明ですが津藩重臣でしょうか?
「花屋壽栄禅尼墓(中央)」。
織田信長生母土田御前の墓。
土田御前は織田信秀の継室で、
信長、織田信行、織田信包、織田秀孝、
お市の方の実母でした。
本能寺の変後は孫の織田信雄が引き取り、
信雄の改易後は子の信包の許に身を寄せ、
文禄3年(1594)に信包の所領安濃津で死去。
四天王寺に葬られています。
「久芳院殿桂月貞昌大禅定尼」。
藤堂高虎の正室久芳院の墓。
久芳院は一色義直の娘で、
天正9年(1581)に高虎の許に嫁ぎますが、
子宝に恵まれなかった為に、
高虎に側室を迎える事を進めたという。
しかし高虎は側室を迎えようとせず、
丹羽長秀の三男藤堂高吉を養子に迎え、
家督を継がせようとします。
後に高虎は松寿院を側室に迎え、
実子藤堂高次を得ていますが、
久芳院への心配りは変わる事はなく、
津城で久芳院が死去すると、
高虎は荒廃していた四天王寺を再興。
久芳院の墓所として弔い、
津城内の久芳院の書院を移築しました。
※高吉は後に名張藤堂家となっています。
津藩の藩儒斎藤拙堂の墓へ。
「斎藤家墓所」。
墓地南側の丘陵部にある斎藤家の墓所。
斎藤拙堂とその一族の墓があります。
「拙堂斎藤先生墓」。
※後から気が付いたのですが、
これは後ろ側の写真でした。
石柱がこのように設置されている為、
てっきり表側と思ってました(泣)。
拙堂は津藩儒斎藤如山の子に生まれ、
昌平黌に学び古文に通じていたという。
津藩校有造館の創設に参加し、
11代藩主藤堂高猷の侍講も務め、
郡奉行となり不正を取り締まりました。
後に有造館の督学に就任し、
文庫の造設、学則の改善、洋学導入、
人材登用、種痘館設置等、
朱子学者ながら良いものは取り入れ、
和洋折衷を提唱。
他にも藩政改革にも関与する等、
藩外にも名声が轟いたという。
頼山陽、渡辺崋山、吉田松陰等が、
拙堂の名声を聞いて来訪しており、
河井継之助は津に長期滞在し、
拙堂の教えを受けています。
慶応元年、死去。
「齋藤如山翁墓(左)」、
「文真先生墓(右)」。
拙堂の父斎藤如山の墓と、
拙堂の子斎藤正格の墓。
斎藤家は代々江戸勤務でしたが、
拙堂が有造館の創設に参加する事となり、
家族で津へ引っ越してきたとされ、
長男正格も有造館督学となっています。
「温秀院誠堂墓」。
拙堂の孫斎藤正煕の墓。
正煕は正煕の長男で家学の他、
剣術、柔術も学んでおり、
祖父や父にも劣らぬ秀才だったようですが、
元治元年の禁門の変で朔平門を守備し、
その直後に病を得て死去しています。
斎藤家墓所の隣にある堀江鍬次郎の墓。
「堀江公粛墓」。
写真家及び科学者堀江鍬次郎の墓。
津藩士堀江忠一の次男に生まれ、
下曽根金三郎に西洋砲術を学び、
長崎に遊学して科学を学びました。
写真家ピエール・ロシエに写真術を学び、
友人の上野彦馬を有造館に呼び寄せ、
共同で化学解説書[舎密局必携]を執筆。
有造館で蘭学師教頭等を務めていますが、
天誅組の乱にも出兵しとされます。
将来を期待されていましたが、
慶応2年に36歳で死去。
墓所には多くの津藩士が眠っている模様。
残念ながら情報が少なく今回はこれまで。
また再訪する事があると思いますが、
それは来年以降になりそうです。
■関連記事■
・三重県津市 津城跡
津藩藤堂家の居城跡。
・三重県津市 寒松院/津藩藤堂家墓所①
津藩藤堂家の歴代墓所。