京都府京都市 橦木町遊郭跡

橦木町遊郭伏見宿の北側にある遊郭
赤穂義士大石良雄が遊興した事で知られます。


橦木町廓之碑」。
大正7年に建立された碑。
橦木町遊郭の創設やその発展及び、
大石良雄が遊興した事が刻まれています。
橦木町遊郭は渡辺掃部前原八右衛門が、
伏見奉行長田吉正と同芝山正親の許可を得て、
富田信濃守邸址に慶長9年(1604)創設。
その後は盛衰を経て元禄期に最も繁栄し、
京都の公家衆も来遊してきたという。


橦木町遊郭跡」。
残念ながらというか当たり前ですが、
遊郭当時の面影は皆無です。


よろづ屋跡」。
会社の倉庫的な建物の建つ場所で。
大石が敵を欺く為に遊興した萬屋の跡。
上記の碑には萬屋ではなく、
笹屋清左衛門方で遊興したとされ、
どっちが正確なのか判りません。
萬屋と笹屋は同じだともされますし、
一ヶ所ではなかったという説もあります。
大石は基本的に[好きな方]だったようで、
数件で遊んでいた可能性も高いし、
一ヶ所に籠るよりも梯子した方が、
敵方にも遊興してると思い込ませられるし、
何が正しいのか判りません。


大石良雄遊興之地よろづや」碑。
萬屋跡の敷地脇に立つ碑。
元禄14年(1701)年。
浅野長矩江戸城吉良義央を斬り付け、
即日切腹となり御家は断絶となります。
家老であった大石は御家再興を図り、
仇討ちを主張する急進派を抑えますが、
結局再興の道は閉ざされてしまい、
協議の末に仇討ちする事に決定。
吉良側でも討入りが警戒された為、
大石は山科に閑居した後、
撞木町遊郭で遊興に耽るふりをします。
これで敵を欺いて後に吉良邸に討入り、
吉良を討ち取って本懐を遂げました。
この事から撞木町で謀議すれば、
何事も成就すると人気が出たとのこと。
遊ぶにも大義名分があった方が、
罪悪感が薄れてよいのでしょう(笑)。

■関連記事■
京都府京都市 島原花街跡
 京都で公に許された遊郭地跡。
京都府京都市 中書島遊郭
 伏見宿の南側にある遊郭。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です