鹿児島県指宿市 山川湊

山川湾は古くからの港で、
砂嘴が形成された良港であり、
その形から鶴の港とも呼ばれたようで、
南蛮貿易の拠点となっていました。
朝鮮出兵では島津勢の拠点となり、
100余隻の軍船がここからを出航。
鎖国体制となって南蛮貿易が終了すると、
琉球貿易砂糖集積の拠点となり、
多くの船が停泊したという。


山川湊」。
天保8年(1837)には米商船モリソン号が、
この山川湊に来航。
薩摩藩日置家12代島津久風を派遣し、
異国船打払令に基づき砲撃を行い、
モリソン号を追い払っています。
また安政5年(1858)には咸臨丸が寄港し、
藩主島津斉彬が乗船して見学。
咸臨丸に乗っていた勝海舟に会い、
国防等について語り合ったという。
翌安政6年には遠島処分を受けた西郷隆盛が、
この山川湊から奄美大島に向かっており、
更に文久2年の流罪でも、
ここから徳之島へ向かっています。


河野覚兵衛家屋敷跡」。
山川の豪商河野覚兵衛の屋敷跡。
河野覚兵衛は奄美大島の砂糖や、
琉球からの交易品を大坂方面に運び、
大きな財を成した商人でした。
代々当主は覚兵衛と名乗っており、
名字帯刀を許された家柄で、
その遠祖は伊予河野水軍とされます。
屋敷跡には石垣が現存しており、
周辺には砂糖蔵が立ち並んでいたという。

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