長島藩は木曽三川の河口部にある長島を領し、
4代将軍徳川家綱の生母宝樹院の縁者、
増山家が治めました。
増山家以前は久松松平家が治めていましたが、
藩主松平忠充が暗君で重臣3人を切腹させ、
その子4人を死罪にするなど暴挙を行った為、
乱心であると判断されて改易となっています。
長島藩の藩庁長島城は鎌倉時代の古城で、
一向一揆の拠点となっていたり、
滝川一益や織田信雄の居城となったりしました。
現在の長島城の跡地は、
長島中部小学校と長島中学校になっており、
遺構は殆ど残っていません。
「長島中学校正門」。
城であったと事を示すような瓦屋根の門。
もちろん遺構ではありませんが、
こういうのは大事だと思います。
城跡の碑のようですが劣化して読めません。
小学校の校庭に建っています。
「長島の大松」。
樹齢300年のクロマツで、
長島城の本丸南西にあったという。
300年前といえば江戸時代の中期頃ですね。
さて、長島城の現存する建造物ですが、
近隣の蓮生寺に大手門が移築されています。
「蓮生寺山門(長島城大手門)」。
明治9年に払い下げられて移築されています。
大手門にしてはこじんまりしていると思ったら、
どうも小さく作り変えているらしい。
増山家の増山雁金の家紋も見受けられました。
幕末の藩主増山正修は佐幕を貫こうとしますが、
伊勢諸藩が次々に新政府へ恭順していったため、
仕方なく新政府に従ってます。
この増山正修は庄内藩からの養子で、
庄内藩主酒井忠篤は甥にあたりました。
恭順後は藩兵を奥羽越に送らねばならず、
辛い思いをしたようです。
長島藩は新政府に恭順謝罪の誓書を提出し、
既に恭順が認められていましたが、
慶応4年1月23日に赤報隊がやって来て、
※長島に来たのは分隊の滋野井隊。
相楽総三は関わってはいない。
色々と難題を吹きかけて人員の供出を求め、
2万両の献金を迫されています。
2万石の長島藩に2万両は不可能な額で、
困り果てた藩は300両を用立てて渡すと、
謝罪の為に献金したという嘆願書を、
無理やりに書かされました。
これが後に問題となる事となりますが、
巷で云われる3000両ではないようですし、
相楽が強奪したわけでないようですが、
長島藩には災難だった事は間違いありません。
【長島藩】
藩庁:長島城
藩主家:増山家
分類:2万石、譜代大名
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