三重県鈴鹿市 神戸城跡

三重に1週間ほど出張に行きましたので、
仕事終わりに周辺の史跡に訪問しました。

神戸藩本多彦八郎家支流で、
本多忠恒を藩祖とする神戸藩本多家が治め、
知行地は1万5000石ながら、
築城を許された城主大名で、
河内国西代に陣屋を構えていましたが、
次代本多忠統が神戸に転封となり、
以後は幕末まで続きました。

初代藩主本多忠統文人大名として知られ、
早い時期から藩校を整備しています。
幕末期の藩主は6代本多忠寛
及び7代本多忠貫で、
譜代大名として奉行職などを歴任。
目立った行動をした藩ではありませんが、
藩士吉川治太夫天誅組の変に関わり、
その責を負って自刃しました。

神戸藩の藩庁である神戸城跡は、
現在神戸公園として整備されています。

神戸公園」。
地元の人が散歩しているような普通の公園。
ブロンズ像なども沢山建てられており、
綺麗に整備されている印象でした。

公園内を歩いていると異様な風景が・・。
15人前後の集団がスマホを凝視している。

なんだろ??と思って後で聞いたら、
ポケモンGOをやってる人達らしい。
レアなポケモンが出るんだそうな。


公園中央に内堀と石垣が残されています。


史跡 神戸城址」。
本丸跡は史跡として整備されていました。


勤皇烈士 吉川治太夫忠魂碑」。
吉川治太夫は藩校教倫堂の教授で、
飛地の河内長野代官を勤めていました。
尊皇思想を持っていた治太夫は、
天誅組の変では天誅組に金銭や食料を提供。
庄屋吉年米蔵を天誅組に加わらせました。

天誅組は五条代官所を襲撃し、
代官鈴木源内らを殺害。
十津川郷士を加えて高取城を攻撃しますが、
朝敵とされて討伐されてしまいます。
庄屋の吉年米蔵も捕えられましたが、
駆け付けた吉川の弁護で釈放。
米蔵は親戚を頼って阿波へ向かいますが、
再び捕えられて尋問されるにあたり、
吉川の関与も疑われます。

岸和田藩より召還を受けた治太夫は、
捕吏と共に岸和田へ向かいますが、
小休止で寄った茶屋で厠を借りた治太夫は、
藩への迷惑を考慮して自刃しました。

神戸藩は吉川家を断絶させて、
天誅組の変への藩の関与を否定。
関与は吉川の個人行動ということで、
藩への御咎めはありませんでした。


先程の石碑の近くにある古い石碑。
こちらも吉川治太夫の碑らしいのですが、
全く何て書いてるかわかりません。


神戸城址天主堂跡碑」。
もともと神戸城は戦国大名神戸氏の城で、
織田信長の三男で城主となった神戸信孝が、
五重の天守を建てたとされています。
その後神戸は天領となって神戸城は廃城。
五重の天守は移築されたようで、
桑名城の櫓として使われたそうです。
その後本多家が神戸城を再築しましたが、
天守は再建されていません。

神戸城の現存建造物は各所に残されており、
蓮花寺二の丸太鼓櫓
龍光寺に書院坐忘亭
四日市市顕正寺大手門が移築。
これら全てを訪問するのは不可能なので、
今回は顕正寺の大手門を見に行きました。


顕正寺山門(神戸城移築大手門)」。
寺院の門には不似合の無骨な門。
騎馬でも通れるような高さがあり、
瓦は本多家の家紋丸立葵となっています。

【神戸藩】
藩庁:神戸城
藩主家:忠恒流本多彦八郎家
分類:1万5000石、譜代大名

■関連記事■
三重県鈴鹿市 神戸宿跡
 神戸城下にある宿場跡。
福島県いわき市 泉陣屋跡
 忠以系本多家の泉藩の陣屋跡。
三重県亀山市 伊勢亀山城跡
 隣藩の伊勢亀山藩の居城跡。
三重県三重郡 菰野陣屋跡
 隣藩の菰野藩の陣屋跡。

三重県鈴鹿市 神戸城跡」への2件のフィードバック

  1. 草村克彦

    吉川治太夫の忠魂碑の横に関連碑があることを初めて知りました。情報ありがとうございます。

    返信
    1. kii 投稿作成者

      >草村克彦 様
      微妙な情報で申し訳ありません。
      でも役に立ったなら嬉しいです!
      これからも覗きに来てください。

      返信

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です