青い目、大きな体、金髪、異様な服装。
幕末の人々は見た事の無い外国人を畏怖した。
・・って、実はそうでもなかった模様。
下関には定期的に外国人が来ていましたので。
出島の蘭商館トップ商館長(カピタン)は、
貿易継続の許可と御礼として、
江戸参府を定期的に行っており、
その道中には必ず下関に寄っていました。
この参府は4年に一度、
嘉永3年までに166回行われています。
しかも数日間の下関滞在が認められており、
宿所に定められた伊藤家と佐甲家の当主は、
両家共に代々蘭癖であった為、
下関に立ち寄ったカピタンらを大歓待し、
周辺の神社仏閣に彼らを案内していました。
つまり下関の人々は4年に一度、
往復二度も立ち寄る外国人達を見るわけで、
西洋人には免疫があったようです。
下関に来るカピタン達にとっても、
出島以外の土地を巡れるチャンスは無いので、
どんどん出歩いて観光していました。
下関以外で数日間の滞在が許されていたのは、
京都、大阪、小倉の3箇所でしたが、
大阪は役人がいるので慎まなければならず、
小倉では出島の役人へ報告の手紙を書くので、
京都と下関のみが羽目をはずせる機会でした。
京都でカピタン達は慎みの無い薄着をして、
羽目をはずしたとされていますが、
滞在先の阿蘭陀宿である海老屋は、
京都特有の小部屋しかない宿で、
京都盆地の蒸し暑い気候に耐えれず、
薄着になっただけかもしれません。
また京都は帝都である為に、
それ程には好き勝手出来ないと思われます。
それに引き換え下関では、
大名の宿泊する本陣が滞在先。
しかも主人が代々蘭癖なので大歓迎。
家族総出でオランダ風の劇を演じ、
綺麗どころの琴や舞を披露したり、
手品や船頭の唄など様々な余興を行い、
主人の収集したコレクションを披露され、
周辺の神社仏閣を案内してもらう。
羽目を外さないほうが難しいかも?
そういう訳で下関は昔から、
外国人が意外と身近だったようです。
高杉晋作が下関を開港しようとしたのも、
そういう土壌があったからかもしれません。
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・下関市本町 空月庵跡/本陣伊藤家墓所
東の本陣伊藤家の墓所。
・下関市南部町 本陣佐甲家跡
西の本陣佐甲家の跡地。
・長崎県長崎市 出島跡
江戸時代唯一の外国への門戸。