下関の民話に「あかずの扉」という怪談?が、
伝えられています。
話が幕末のようなのでご紹介。
明治になるちょっと前の事、
天然痘が大流行した年がありました。
長府逢坂の坂口、向かって右手の角屋敷に、
松田という三百石取の侍が住んでいましたが、
松田の家でも唯一人の男の子と、
その家に奉公する中間の子どもとが、
同時に天然痘にかかりました。
松田家の子は手厚い看護の効き目も無く、
「痛いよ・・痛いよ・・」と、
苦しみながら死んでしまいました。
それに比べ中間の子の方は幸いにも全快。
松田の両親の悲しみは大変なもので、
「坊様と代わっていればよかったのに」と、
主人思いの中間夫婦はそう思っていたし、
口にも出して主人をなぐさめました。
そのうち初七日も過ぎましたが、
しかし松田の耳には、
「痛いよ・・痛いよ・・」と、
苦しんで死んでいった我が子の声が残って、
どうすることもできません。
「おお、倅か!苦しいだろうががまんせい」
真夜中に布団を跳ね返して、
こう口走ることもありました。
松田は日に日に痩せ衰えてほほ骨はとがり、
目が異様にギラギラと光をおびてきました。
それから数日たったある日のこと、
松田が縁側で冬の日差しを浴びていた際、
中間の子がくぐり戸から庭へ入ってきました。
一瞬我が子が入ってきたのかと思いましたが、
その子が中間の子とわかると、
何故だか急に怒りがこみ上げて、
「お前がわしの子を殺したのじゃ」と、
庭へ飛び降りて中間の子の襟首をつかんで、
ずるずると井戸端近く引きずっていきました。
「苦しいよ、はなして」と、
子どもは悲鳴をあげて泣き叫びます。
この声をききつけて、
あわててかけつけた中間夫婦は、
「倅が何か粗相をしでかしたのでしょうか?
どうぞお許しください」と、
主人にとりすがって必死に頼みましたが、
その時既に気が狂っていた松田は、
「このガキが倅に病気をうつしたのじゃ」と、
中間の子を罵ったかと思うと、
刀を抜いて中間の子を斬り捨てました。
首はころころ転がってくぐり戸まで飛び、
ピューっと血を吹きだしたかと思うと、
くぐり戸を真っ赤に染めてしまいます。
松田は気が狂って自害しました。
それからというもの血のついたくぐり戸は、
開いても開いてもすぐ閉まるようになり、
あかずのと呼ばれるようになりました。
というお話。
明治になるち前の天然痘流行の年は、
文久年間だったようです。
文久3年5月以降の下関は風雲急を遂げ、
大変な事になっていましたからそれより前?
逢坂の坂口、向かって右手の角屋敷は、
長府の古地図を調べてみると。
中央の縦に伸びてる道の下側が逢坂で、
川と交差するあたりが坂口でしょう。
角に松田という名前はありません。
こういう話は仮名でしょうから、
この辺りの屋敷って事でしょう。
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