幕末の偉大なる師といえば緒方洪庵。
私塾適塾からは多くの人材が輩出され、
明治維新の原動力となりました。
維新の原動力となった塾といえば、
吉田松陰の松下村塾が挙げられますが、
こちらは革命家を育てた塾であり、
技術者を育てた適塾とは違います。
とはいえ類似点もあり、
塾生同志に切磋琢磨させる教育方法や、
身分を問わなかった点など、
無理やりこじつける事も出来なくもない。
防長出身者が多いというのも、
実は類似点のひとつ。
※松下村塾はあたりまえですが・・
塾生達はヅーフ・ハルマ解読を昼夜行い、
ひたすら学問に打ち込んだとされており、
月6回の[会読]と呼ばれる発表の時間に、
その出来が採点されて成績が競われました。
これら適塾の特融の制度は、
後の慶應義塾の教育にも、
様々な影響を与えたとされています。
出身の偉人を挙げればきりがないのですが、
有名どころでは大村益次郎、大鳥圭介、
福沢諭吉、武田斐三郎、佐野常民、
高松凌運、橋本左内、花房義質、
久坂玄機などなど。
その業種は、医師、教育者、軍学者、
科学者、思想家と多岐に渡っています。
冒頭にも松下村塾の事を書きましたが、
決定的に違うのは主宰する洪庵と松陰。
松陰が情熱と狂気の人だとすれば、
洪庵は厳格ながら温厚な人柄の人物で、
まさに聖人と言っても過言ではありません。
[除痘館]を開いて天然痘の撲滅に奔走し、
コレラ流行には治療手引き書を医師に配り、
常に厳格でありながらも、
その正確は温和で人を怒った事が無く、
塾生を我が子のような愛情で接したという。
その洪庵の墓所が大阪市北区にあります。
天満橋筋から曽根崎露天神社に至る道は、
多くの寺院が並んでいました。
現在の西側は歓楽街となっており、
その数を減らしていますが、
東側は今も寺院が軒を連ねています。
「龍海寺」。
福井武生の金剛院九世亀洲宗鶴和尚が、
豊臣秀吉の招請で開山した曹洞宗の寺院で、
大坂城鎮護の寺として敬われました。
「本堂」。
本堂は2度の焼失を経験しています。
一度は大塩平八郎の乱の戦火で、
二度目は大阪大空襲でした。
開山の宗鶴和尚は越前に赴いた豊臣秀吉を、
金剛院で茶と蕎麦で持て成したという。
その際に和尚と秀吉が同郷だとわかり、
越前閉廷後に招請された模様。
「洪庵緒方先生之墓(右)」、
「洪葊先生夫人億川氏墓(左)」。
緒方洪庵は江戸で死去しており、
遺骸は江戸の高林寺に埋葬され、
遺髪がこの龍海寺墓所に埋葬されています。
隣は洪庵の妻億川八重の墓で、
適塾生より母のように慕われた女性。
七男六女を産んだほか、
適塾生にも我が子のように慈愛の心で接し、
洪庵を陰で支えた良妻賢母だったという。
「緒方郁藏先生墓(中央)」、
「緒方郁藏先生夫人榮子墓(左)」、
「賢学士緒方太郎墓(右)」。
墓地の隅に並ぶ緒方家の墓石。
緒方郁蔵は洪庵の坪井信道門下の後輩で、
洪庵が適塾を開いたと聞いて入門。
義兄弟の契りを結んで緒方姓を名乗り、
種痘の振興に協力した他、
自らも独笑軒塾を開いており、
違いの塾生の交流も盛んに行われてます。
また土佐藩に招かれて翻訳も行いました。
維新後は大坂医学校開設にあたって、
取締となった次男緒方惟準に協力してます。
左右は郁蔵の妻榮子と息子緒方太郎のもの。
「大村兵大輔埋腿骨之地」。
大村益次郎は明治2年に京都三条の旅館で、
長州藩大隊指令静間彦太郎、
伏見兵学寮教師安達幸之助らと会食。
そこへ神代直人ら8人の刺客が襲撃し、
静間と安達は刺客らに惨殺され、
一命は取り留めますが重傷を負います。
大村は京都の長州藩邸へ移送されて、
数日間の治療を受けますが、
傷口か膿んで敗血症となってしまいました。
そこで大阪仮病院に転院し、
左大腿部を切断することになりますが、
手術のための勅許を得る調整に手間取り、
手術開始時はすでに手遅れになり、
翌日に高熱を発して死亡してしまいます。
臨終では陸軍の後事を託した後、
足を洪庵の墓の傍に埋めるよう遺言。
ひそかに洪庵の墓の側に埋められました。
この事は昭和になるまで知られず、
当時の住職も知らなかったとの事です。
洪庵は蘭学だけでなく漢方も重要視し、
常に最善の治療方法を模索しました。
また翻訳には語学が必要との考え方から、
漢学も重要性も認識も持っていたようです。
厳格ながら花見、舟遊び、歌会を興じ、
特に和歌が得意で、
古典への造詣も深かったという。
そんな柔軟さが教育にも生かされた為、
人材を育成する事ができたのでしょう。
■関連記事■
・大阪府大阪市 適塾と除痘館
当時の蘭学最高峰のひとつ。
・千葉県佐倉市 佐倉順天堂記念館
適塾と並ぶ当時最先端の佐倉順天堂跡。
・大分県日田市 咸宜園跡
江戸期の日本最大の私塾咸宜園跡。