吉田松陰の視察日記[廻浦紀略]によると、
松陰は嘉永2年7月16日、
引島(彦島)福浦の金毘羅山に登っています。
この金毘羅山に灯籠堂があったそうで、
福浦に来る船の目印とされていたという。
金毘羅山は金刀比羅宮建立後の名前で、
富観台とも呼ばれていますし、
それまでは頭兜山と呼ばれていました。
金刀比羅宮が出来てからは、
北前船が福浦湾に寄港すると、
宮司がわざわざ船まで出向き、
海上安全の祈祷をしてくれるので、
それが評判となって寄港する船が増えて、
福浦の港は大変繁盛したらしい。
そんな福浦金刀比羅宮に行ってみました。
「一之鳥居」。
福浦湾に面して一之鳥居が建ってます。
福浦金刀比羅宮に参拝する為には、
日本一の急石段を登らねばなりません。
※本当に日本一かは不明。
日本一急な石段(とも云われる・・)。
その勾配は約50度。
その段数は279段あるようですが、
金毘羅山に住むキツネにイタズラされて、
石段を数えながら登ると、
必ず間違えてしまうと伝えられます。
※この279段も化かされてなければの話。
松陰が登った頃はまだ建設中で、
160余段しか出来ておらず、
松陰が石工に尋ねると、
「完成時は200段ばかりになるだろう」
という話でしたが、
実際の完成時は279段なので、
かなり計算が違ったようですね。
後はどうやって登ったんでしょう?
ロープでも垂らされてたんでしょうか?
廻浦紀略にはその辺は記されていません。
で、登りましたよ!
みよちゃんをダッコして。死にそうでした。
実は裏手に2本ほど別の道があるのですが、
日本一を味わおうと頑張りました。
「拝殿」。
賽銭箱はここにはなく、
一之鳥居の横にあります。
管理してる人も賽銭を回収するために、
ここまで登るのもしんどいでしょうからね。
現在は木々に囲まれて境内からは、
福浦湾はほとんど観えませんが、
当時は福浦湾が一望できたのでしょう。
「彦島福浦富観台之碑」。
拝殿のすぐ側にある碑で、
長府藩の儒学者である小田南陔(圭)が、
福浦湾の傍観の素晴らしさを謡っています。
もちろん松陰もこの碑文を読みました。
当時は灯籠堂と台場があったのですが、
もちろん現在はありません。
どこかにその痕跡が無いか探してみると、
何らかがあったであろう平地や、
石垣らしきものを発見しました。
これが痕跡かはわかりません。
[廻浦紀略]では、
壇ノ浦の近くの山に灯籠があり、
福浦のものと似ていると書かれています。
石段を上から覗く。
足を踏み外したら確実に死にます。
絶対転げ落ちて死んでる人いると思う。
2歳の愛娘を抱えて降りて、
もしもの事があったらまずいので、
帰りは裏道から下りることにしました。
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北前船の寄港地として栄えた福浦。