壇ノ浦の戦いで平家が敗れた後、
平清盛の弟平家盛が宇久島に流れ住み、
宇久氏を名乗ったとされます。
20代当主宇久純玄は豊臣秀吉に臣従し、
朝鮮出兵にも参加しており、
この頃から五島姓を名乗ったという。
その後21代当主五島玄雅が、
徳川幕府に所領を安堵されて福江藩を立藩。
江川城を藩庁としていましたが、
火災で焼失して以降は築城が許されず、
石田陣屋を藩庁として幕末に至ります。
幕末に入って海防が重要になってくると、
嘉永2年に幕府より築城が認められ、
石田城の建設を開始。
城の完成までに14年の歳月を要し、
文久2年に完成した海城である石田城は、
日本で一番新しい城となりました。
※松前城より新しい。
高速船の発着場から見えるのは、
築城の際に波を防ぐ為に建てられた防波堤。
「常灯鼻」。
この防波堤が造られた後は波が遮られ、
容易に築城することができたという。
城の建設後は常夜灯が設置され、
漁民にとっても重宝されました。
現在も防波堤の役目を果たしています。
「石田城大手門」。
野積みされた武骨な石垣で、
重厚な城門によく似合っています。
石工は大津の石工集団だったそうですが、
琵琶湖の波と海の波は違うので、
海城を造るのに相当苦労した事でしょう。
「長崎県立五島高等学校」の校門。
城内は五島高等学校の敷地となっており、
先程の大手門を入って登校するようです。
校舎に書かれたスローガン。
[城跡]と書いて[まなびや]と読む。
大手門側からは行けませんが、
五島観光歴史資料館や五島市立図書館、
五島市福江文化会館が建てられており、
どれも城っぽい造りになっています。
石田城南西側の武家屋敷通りへ。
「武家屋敷通り」。
2代藩主五島盛利の時代に、
各知行地に居住する家臣団を城下に集め、
支配権を強化した福江直りという政策で、
家臣団がこの付近に移り住みました。
武家屋敷通りと呼ばれていますが、
当時の面影は石垣と屋敷門のみで、
屋敷の殆どが現在の家屋となっています。
「福江武家屋敷通りふるさと館」。
藤原家邸宅跡に建てられた観光施設。
屋敷は後に造られたものですが、
門や庭園は当時のものです。
武家屋敷通りの塀の石垣には、
[こぼれ石]と呼ばれる小石が積まれ、
塀を乗り越える侵入者があると、
小石で音が鳴る仕組みとなっています。
なるほどよく考えられていますが、
台風の時なんて大変そうですね。
「江川城跡」。
たまたま泊まった宿[五島第一ホテル]は、
江川城があった場所らしい。
建物の脇に石碑が建てられています。
幕末期の福江藩は領地が遠島で、
海防に関心があった事から攘夷派でしたが、
一方で支流の富江領五島家は佐幕派でした。
※3代盛次が弟五島盛清に3000石を分与。
3000石ながら大名格として扱われた。
慶応4年に福江藩が富江領を合併すると、
これに富江側が反発し富江騒動が勃発。
富江領の領民が次々と富江に集まり、
男衆は竹槍を持って武装決起し、
福江藩の関係者を襲撃しました。
これに対し福江藩は武装して藩境に待機し、
一触即発の状態の中で膠着状態が続きます。
ここへ来て双方の重臣らが話し合い、
事態の収拾に努め富江側が降伏。
この騒動は新政府の長崎役所にも届き、
家老2名が長崎役所に出頭しました。
長崎役所には当時井上聞多が出仕しており、
この騒動を引見した井上は富江側に同情し、
[今は辛抱するように]と諭じます。
井上は薬師寺久左衛門と高松清一と共に、
五島に渡って8代富江領主五島盛明と面談。
叛意が無い事を確認します。
薬師寺と高松は富江領内宣撫に努めますが、
権利論争などに手を焼いたとされています。
その後も領主、家臣らは旧領回復を目指し、
新政府に復領を嘆願しますが、
結局は戻る事はありませんでした。
福江藩自体も廃藩置県で消滅しています。
【福江藩】
藩庁:石田城
藩主家:五島家
分類:1万5000石、外様大名
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