長崎県南松浦郡 ワイルウエフと潮合騒動

上五島に商談で訪問。
上五島中通島沖でワイルウエフ号が沈没。
沈没現場周辺に坂本龍馬ゆかりの地碑と、
坂本龍馬の銅像が建っているので、
前回上五島に行った際に、
さらっと見に行きました(記事はこちら)。

今回は商談なので時間が余ったので、
もう一度じっくり訪問してみます。

中通島北東部(有川港と沈没地点)
中通島は佐世保から高速船で1時間30分。
島の玄関口のひとつ有川港に着きます。
ここに福江藩有川代官所がありました。

ワイルウエフ号は薩摩藩の後援を得て、
グラバーから購入した洋式帆船で、
同船は荒鉄銅地金大砲小銃を積んで、
ユニオン号に曳航されながら、
長州藩船籍で亀山社中が運用。
慶応2年4月28日に長崎を出発します。

ワイルウエフ号は順風な航海を続けますが、
2日後の4月30日に暴風雨に遭遇
ユニオン号とワイルウエフ号は衝突を恐れ、
お互いを繋ぐロープを切断しました。
そしてユニオン号は鹿児島に到着しますが、
ワイルウエフ号は五島列島付近まで、
暴風で流されてしまいます。
潮合崎にたどり着いたワイルウエフ号は、
その沖合いに碇を下ろしますが、
大波の影響で浅瀬に乗り上げてしまい、
その引き波で転覆。
そのまま沈没してしまいます。
乗員16名は海に放り出され12名が水死。
奇跡的に4名が助かりました。

通報を受けた有川代官近藤七郎右衛門
遠見番役安永惣兵衛らが現場に駆けつけ、
平穏な島は大事件に騒然とします。
仮番所(対策本部みたいなもの)が設置され、
救助されたのは亀山社中の浦田運次郎と、
薩摩藩士村山八郎
水夫市太郎三平の4名。
水夫の2人を現場の江ノ浜に残し、
浦田と村山は遠見番所に移されました。
※身分の違いと思われます。
ちなみに上五島を領する福江藩五島家は、
悪名高い「三年奉公制」を実施した藩。
領民の長女を除く娘が16歳に達すると、
武家への3年間奉公を強制した奴隷制度
身分制度が強い藩風だったと思われます。


ワイルウエフ号が沈没した江ノ浜の海。
テトラポットの山付近が沈没した場所。


坂本龍馬ゆかりの広場」。
沈没地点に手をあわす龍馬の銅像。
そして「坂本龍馬ゆかりの地」の石碑。
舵棒のレプリカもあります。
「坂本龍馬ゆかりの・・・」って、
違う命名できなかったのかなぁ?
ビックネームの坂本龍馬を使った方が、
観光客を呼べるという魂胆から、
こういう名前になったんでしょうけど、
上五島まで龍馬史跡を見に来るって、
龍馬の相当のコアなファンですから、
ワイルウエフ号殉難地」の方が、
絶対ウケが良いと思います。

そしてここにも、
「坂本龍馬ゆかりの・・・」があります。

坂本龍馬ゆかりの碑」とは、
ワイルウエフ号殉難者の慰霊碑の事。
慰霊碑なんですからゆかりのはどうなの?
バチ当たりな気がしないでもない。


浜ノ浦共同墓地」。
この墓地に慰霊碑があります。
墓地の外周全てが柵で囲まれていて、
入ることが出来ずにこまっていると、
地元のおじいさんが歩いてきましたので、
どうやって入るのか聞いてみると、
イノシシ除けの為に設置された柵なので
ヒモをほどいて入っていいという。
終わったらヒモは縛っておいてとの事。


墓地にはコンクリートの小屋があり、
この中に慰霊碑(墓)があります。
風化を防ぐ為でしょうか?
この慰霊碑は長く忘れ去られていて、
何の墓が誰も知らなかったようですが、
昭和43年に地元小学校教諭が発見しました。


ワイルウエフ号殉難者の慰霊碑」。
正面に
高泉十兵衛細江徳太郎水主頭虎市
同熊吉水主浅吉徳次郎勇蔵
忠次郎嘉蔵貞次郎
幸助常吉と記されています。
高泉十兵衛は黒木小太郎の、
細江徳太郎は池内蔵太のそれぞれ変名。
この碑の正体が判明されるまで、
この墓は誰の墓か地元の人もわからず、
さつまじんさま」と伝えられていた様。
引き上げられた殉難者の遺体は、
火葬されてここに埋葬されたようで、
事故を聞きつけた龍馬がこの地を訪れ、
この慰霊碑を建てたとされます。


案内板もしっかりと作られていますが、
残念ながら名前は「龍馬ゆかりの碑」。
ワイルウエフ号殉難者慰霊碑」とか、
そんな名称の方が良いんじゃ・・?


近くの民宿「民宿潮騒」に、
舵棒(本物)が保存されていました。
先ほどの「坂本龍馬ゆかりの広場」と、
高知県立龍馬記念館」に複製があります。


ワイルウエフ号の舵棒」。
近づこうとすると、
いきなり犬が出てきました(驚)。
吼えて近づくことが出来ません。

有川代官近藤七郎右衛門の指揮のもと、
遺体、漂流物の回収が行われ、
薩摩藩や福江藩の役人も現地入り。
海士、漁師などが雇われて、
沈んだ積荷の引き上げが行われました。
その際に引き上げた舵棒を、
地元の漁師が貰い受けて保管したようで、
それが「民宿潮騒」の舵棒だそうです。

因みに細江徳太郎池内蔵太の変名ですが、
彼が変名を名乗るきっかけとなったのは、
真木菊四郎暗殺事件(記事はこちら)から。
長州藩に居られなくなった池を龍馬が匿い、
変名で亀山社中に入れています。
真木家は水天宮の宮司家。
水の祟りに遭ったのかもしれません。

捜索回収作業は1ヶ月半程掛かったとされ、
この一連の騒動は潮合騒動と呼ばれました。

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