国東半島の付け根に位置する杵築藩城下町は、
現在も藩政時代の建造物が数多くのこり、
町の区画は美しい景観を見せてくれます。
「杵築城天守」。
一国一城令により杵築城は山頂部が破棄され、
規模が縮小されて陣屋規模となりました。
天守も取り壊されて再建されておらず、
この天守はシンボルとして建てられもの。
模擬天守とはいえ天守があるのとないのでは、
その雰囲気は全然違います。
杵築市周辺から集められた石塔群。
本丸跡付近に並んていますが、
石塔、石灯籠、石碑などその数に圧巻です。
「小串邦太 小串為八郎兄弟の碑」。
杵築藩尊攘志士の兄弟で脱藩して長州に走り、
尊皇攘夷運動を展開しますが、
兄邦太は開国論を唱えた為に暗殺されました。
弟の為八郎のその後はよくわかりません。
「孝女初碑」。
幼くして父と死別し老病の母に孝行し、
領主の恩賞を受けること数度、
その名は幕府にも届いたという。
孝行で恩賞を受け幕府にも名が知れるとは、
どんなすごい孝行なんでしょ?
「孝子兵吉碑」。
貧困の家に生まれ老母を抱えて孝子の誉れ高く、
上記の孝女初と共に愉婉録に記されています。
※三浦梅園著。
城を出て城下町へ。
杵築城下町の地図。
唯一のサンドイッチ型城下町とされ、
二つの小高い丘に武家屋敷が並び、
その谷間に商人達の店がならんでいます。
「勘定場の坂」。
城より北台と呼ばれる武家の町に通じる坂。
文字通り坂の下に勘定場があった為、
その名が付いています。
「北台武家屋敷群」。
高級武士達の邸宅が並ぶ北台武家屋敷には、
当時の屋敷が保存されています。
「藩校の門」。
杵築藩の藩校学習館の藩主御成門。
士族子弟は無論平民の子も通うことが許され、
九州諸国より三浦梅園や帆足萬里など、
著名な学者を招いたりしました。
現在は杵築市立杵築小学校の敷地です。
「酢屋の坂(手前)」「志保屋の坂(奥)」。
北台と南台を結ぶ二坂。
杵築城下町の象徴でもあります。
二つの坂の名前の由来は坂下の商屋から。
塩屋長右衛門は南台の坂下で塩屋を繁盛させ、
後に北台の坂下に酢屋を繁盛させています。
そして南台の坂が塩屋(志保屋)の坂と呼はれ、
北台の坂が酢屋の坂と呼ばれました。
今も昔の雰囲気を残す景観が残されています。
「商人の町」。
坂の下は商人達の町。
現在も店舗が並んでおり、
その家屋も昔風に揃えられてます。
「家老丁」。
志保屋の坂を登ると家老丁の通りです。
永代家老中根家の隠居屋敷がありました。
中根邸は現在も残されています。
「飴屋の坂」。
南台武家屋敷裏丁と商人の町を結ぶ坂。
[く]の字の曲がる階段は情緒があります。
白っぽい石畳は、雨が降る夜でも白く浮かび、
暗中でも見えたことから雨夜の坂とも呼ばれ、
いつのまにか飴屋の坂と変化したという。
杵築藩といえば桜田門外の変の目撃証言。
杵築藩の江戸屋敷は桜田門のすぐ近くで、
藩邸在勤の藩士達が変の様子を目撃しました。
藩政府は目撃者達に他言無用を申し付け、
幕府への報告も行いませんでした。
これは彦根藩への助太刀をしなかった事を、
咎められる恐れがあったからです。
藩士達は変の様子を克明に記録しており、
これが桜田門外の変を研究するうえで、
大変重要な資料となっています。
【杵築藩】
藩庁:杵築城
藩主家:能見松平家
分類:2万3000石、譜代大名
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