大分県日出町 日出城跡

日出藩は、豊臣秀吉の義兄木下家定の三男木下延俊が、
関ヶ原の戦いで終始東軍として活躍し、
その功績により3万石を与えられて立藩した藩。

2代藩主木下俊治が弟延由に5000石を分与した後、
江戸時代を通じて2万5000石で、
日出周辺を支配しました。

藩祖木下延俊は、正室加賀の方の兄細川忠興の支援を受け、
所領の日出に城を建てています。
築城の際に人柱が建てられたという言い伝えがあり、
城跡の整備の際に人柱らしき人骨が見つかったらしい。
その人柱を祀る祠も建てられています。


日出城大手門跡」。
日出城は別名「暘谷城」と呼ばれ、
大手跡には「暘谷城跡」の碑がありました。
暘谷」とは中華の古書「淮南子」に記載されている
「日出於暘谷 浴于咸池」から命名されたもので、
「日出」という言葉もこの一文に含まれています。
現在、本丸跡は日出町立日出小学校となっており、
大手門跡は小学校の正門となっています。


鬼門櫓」。
廃城令よって取壊しになった後も、
校舎として望海櫓鬼門櫓が残されていましたが、
大正期の校舎建替によって望海櫓が取り壊され、
鬼門櫓は民間に引き取られてました。
平成20年、所有者の中村氏より日出町に寄付され、
現在の位置に移築されています。
この櫓が珍しいのは、鬼門方向のを欠けさせており、
鬼門を無くしている事。
写真の櫓の右角が欠けているのがわかるでしょうか?


明治初年の鬼門櫓の写真。
ちなみに現在の場所は、鬼門櫓があった場所ではなく、
月見櫓があった場所とのこと。

大手門跡や鬼門櫓の並びには、
日出の2大スターの銅像があります。

瀧廉太郎像」。
荒城の月」で知られる明治の作曲家。
彼は日出藩家老家である瀧家の出身でした。


帆足萬里像」。
豊後三賢の一人。
儒者でありながら、経学、史学、科学などに精通し、
藩に請われて財政改革を行い、成果を挙げています。


天守台跡」。
小学校と中学校の間の道を進むと天守台が見えます。
3階建ての層塔型天守が建っていました。


裏門櫓跡時鐘」。
裏門はそのまま小学校の裏門となっており、
裏門櫓の石垣が残されています。
その上には鐘が設置されていますが、これは時鐘で、
日出城外大手の土居城下に掛けられ、
毎日十二刻の時を知らせていたもの。
戦時中の金属供出からも地元民の手で守られ、
戦後、この場所に設置されました。
現在は児童が毎朝8時に鐘を鳴らしているそうです。


日出藩 藩校「致道館」跡地」。
現在の日出町立日出中学校は、
藩校致道館があった場所。
安政5年から明治4年の廃藩まで続き、
校舎は、女学校、役場、区裁出張所、図書館と使用され、
その後、日出中学校の開校に伴い、
藩校家屋は解体移築されています。


致道館」。
元あった位置から、城を挟んで反対側に移築され、
現在は修復されてきれいになっていました。
致道館という校名は、庄内藩土佐藩も用いており、
致道」とは、「道を致す」という意味で、
「学問や武道、人道を極める」という事で
藩校の名前のするのにぴったりな言葉ですので、
使われやすかったのでしょうね。

幕末の藩主14代俊方、15代俊程、16代俊愿は、
すべて13代木下俊敦の子。
また、清末藩8代毛利元純も彼の子です。
俊敦は、弘化4年に家督を譲って隠居するのですが、
その後、非常に長生きして、
上記の子らが死去した後も存命していました。

日出町の名物は「城下かれい」。
もちろん日出城の下の海岸付近で獲れるカレイだから。
このあたりの海は、海底から清水が湧き出ており、
塩分濃度が低く、海水、淡水両方のプランクトンが発生し、
それを食べて成長するマゴガレイは、
淡白かつ上品な味になるそうです。

【日出藩】
藩庁:日出城
藩主家:延俊流杉原木下家
分類:2万5000石、外様大名

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