帆足萬里は日出藩家老帆足通文の三男で、
小浦村の儒学者脇蘭室に学び、
儒学に留まらず経済、物理、天文など、
あらゆる分野の学問を研究。
特に自然科学において云えば、
西欧学者にも匹敵していたとされます。
その学識を買われて家老となり、
現任の家老を廃して有能な人材を配置し、
不正や無駄を取り除く政策を取り、
一定の成果をあげたようです。
家老退任後は私塾西崦精舎を開き、
子弟の教育に尽くしました。
健康を気遣い養生に尽くして長生きし、
75歳まで生きています。
帆足の墓所は松屋寺墓地にあるのですが、
墓地はかなり広くて寺から遠い場所にあり、
案内板も墓地に設置されていますが、
別の場所から行く方が簡単でした。
国道10号線より松屋寺入口交差点から、
細道を入ると松屋寺なのですが、
そのまま大きい道を進むと、
「帆足萬里の墓」の看板があります。
坂を登ると正面に墓所が見えてきます。
「文簡帆足先生墓」。
文簡は贈名。
柵がしてあるのは彼の学識にあやかろうと、
墓石を削って持ち帰る人が多かったから。
確かに削られています。
さて帆足萬里の墓の前あたりに、
こんな案内板がありました。
「こて絵」は壁に描かれたレリーフ的な絵?
ちょっと興味があったので行ってみました。
↑こて絵。
「青柳鯉市正之墓」。
ちょっと探して墓石を見つけました。
青柳鯉市は左官の五男として生まれ、
普請方左官職青柳家の養子となります。
成長して江戸に出て修行し、
こて絵を始めた入江長八の仕事を目にし、
帰郷して普請方左官職として腕を磨き、
日出でこて絵を広めました。
町内には37点のこて絵が現存しています。
話を帆足萬里に戻します。
彼の逸話として面白いものがありました。
「帆足の弟子であまり優秀では無く、
物覚えも悪い若者がいた。
ある日若者が刃物捌きを見せると、
「君は外科医になるべきだな」と、
帆足は何の気なしに言いました。
次の日に若者は外科医になりたいと、
帆足に外科医の指導を請う。
当時の帆足に医学の知識はなく困ったが、
自分が「なるべきだ」と言った以上、
専門ではないと断るのは無責任と感じ、
その日から医学書を読み漁り、
やがてある程度の医学知識を取得。
若者に医学の基礎的な考えについて教え、
師とするべき人物も教えて送り出した。
後に若者は立派な医者になったという」。
帆足の広い学識の所以は、
そういう心掛けからなのでしょうね。
■関連記事■
・大分県速見郡 日出城跡
日出藩木下家の居城跡。
・大分県日田市 廣瀬淡窓墓所
豊後三賢のひとり廣瀬淡窓の墓。
・大分県速見郡 龍泉寺/瀧廉太郎墓所
日出出身の作曲家瀧廉太郎の墓。