西崦精舎は帆足萬里が開いた私塾で、
天保13年(1842)から約8年、
多くの門人達を指導した場所です。
また自身の学究や著作活動を行い、
「入学新論」や「東潜夫論」を著作しました。
「西崦精舎跡」。
西崦精舎があった場所は整地され、
当時の建物は既に失われていますが、
基礎や生活の痕跡は埋蔵されたままとのこと。
「御涼石(中央)」、
「帆足萬里先生西崦遺蹟(右)」碑。
当時からあったという御涼石と、
明治45年に建てられた西崦精舎の記念碑。
この巨石は西崦精舎の傍にあったようで、
萬里や門人から御涼石と呼ばれて、
親しまれていたのだという事ですが、
その名の由来等はわかりません。
傍らの記念碑は萬里の従四位追贈の際、
南端の村民らが建てたものという。
帆足萬里は日出藩家老の帆足通文の子で、
大坂の中井竹山、筑前の亀井南冥、
京都の皆川淇園等に学んで学者となり、
稽古堂の教授を務めて子弟を教育。
天保3年には家老に就任して改革を任され、
財政面で大いに実績を挙げますが、
保守派との軋轢から僅か3年で辞任します。
辞任後は自宅で私塾を開いていましたが、
後に南端村目刈に移り住んで西崦精舎を開き、
教育と学究に勤しみました。
弘化4年(1847)に門人らと京都に赴き、
東福寺の採薪亭に滞在。
大学の設立を朝廷に訴えています。
翌年に戻って再び西崦精舎で教えますが、
嘉永4年に病を得て日出城二ノ丸に移住。
翌年に75歳で死去しています。
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