黒崎湊は福岡藩の領有していた港で、
大坂への貨客船が発着していました。
江戸期の九州からの上方への発着口は、
小倉城下の小倉湊と黒崎湊しかなく、
九州諸藩は参勤交代で海路を使う際は、
小倉湊かこの黒崎湊を使用したようです。
「筑前 黒崎湊跡」。
大日本印刷の工場敷地東側のフェンスより、
すぐ横を通って行くとあります。
黒崎の地名の由来は日本武尊の熊襲征伐の際、
「穴暗哉(あなくらきかな)」と言った事から、
「暗崎(くらさき)」と呼ばれるようになって、
「隈前(くまさき)」を経て「黒崎」となった模様。
当HPでは湊町の記事タイトルに、
「〇〇湊」と跡とは付けないのですが、
これはカタチは変われど未だ港町は健在で、
「跡」とするのは失礼であると思ってるから。
でも今回「黒崎湊跡」とさせてもらったのは、
碑が「筑前 黒崎湊跡」となっている事と、
埋め立てで工場地帯となってしまっている為、
今回はあえてタイトルに「跡」と付けています。
「黒崎泊地(黒崎湊)」。
「跡」とはいえ現在もその名残はあり、
「黒崎泊地」と変わっています。
元治2年1月15日に五卿は黒崎湊に上陸。
福岡県北九州市 黒崎湊/五卿上陸地
黒崎宿の櫻屋に2泊した後、
長崎街道を南下して太宰府に向かいました。
上方への玄関口であったことから、
黒崎湊と隣接する黒崎宿は賑わいを魅せ、
非常に活気のある地域であったようです。
今でこそ活気はなくなりかけていますが、
北九州市の副都心としてまだまだ健在。
但し高度成長期には洞海湾の汚染が進み、
大腸菌も生息できない死の海でした。
後に水質浄化の対策が行われてからは、
除々に改善されてきたようで、
イルカも度々目撃されているとのこと。
■港町
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長崎街道の2番目の宿場町。
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五卿は赤間宿に25日間滞在しています。
