立石領主木下家11代木下俊清の墓が、
山田墓地という場所にあるとのことで、
その情報を頼りに行ってみましたが、
どこを探しても見つかりませんでした。
仕方なく後日杵築市教育委員会に連絡し、
本当に墓所があるのかを訪ねると、
山田墓地の最奥にあるとのこと。
そういう訳で再訪しましたが、
最奥らしき場所には何もない・・。
その奥は道が無かったのですが、
あきらめず道なき道を進むと、
また墓石の集まる場所を発見。
しかしそこにもなかったので、
更に高い場所に登るとありました。
「羽柴家墓所」。
俊清は明治5年に羽柴姓に改めており、
羽柴家の墓所となっています。
記事を見て訪問しようと思った方の為、
下記に簡単な地図を載せておきます。
山道を歩ける装備で参拝して下さい。
山田墓地は国道10号線と、
県道716号線(佐田山香線)のT字路の北側。
車は谷間に駐車出来ます。
点線のように進めば行ける筈ですが、
季節は考慮した方が良いかも?
「前中大夫豊臣朝臣俊清墓(右)」、
「京極豊子之墓(左)」。
立石木下家11代当主木下(羽柴)俊清の墓と、
多度津藩5代京極高琢の娘で、
俊清の正室であった京極豊子の墓。
俊清は殖産興業に力を注いだ領主で、
家臣の後藤八衛、野口善兵衛に命じ、
領内各地に27ヶ所の溜池を築造しました。
また林業が有望として栽培にも取り組み、
杉や檜を数10万本も植林しています。
更に家臣の献言を受け入れて、
男子を産んだ領民には綿三斤を贈り、
これを恒例としました。
幕末期の立石領では守旧派が多く、
王政復古を喜ばぬ風潮であったとされ、
新政府への恭順が遅延。
これに日田県知事だった松方正義は、
立石領の日田県預かりを宣言します。
この報に大いに驚いた立石領では、
本家日出藩の協力を得て一計を案じ、
「元々立石木下家は勤皇に篤いが、
一切の世話は本家に任せていた為、
帰順願書を差し出さぬままでいた」と弁解。
どうにか存続する事が出来ましたが、
明治4年の廃藩置県領地を返還しました。
明治5年には羽柴姓に改姓して、
華族への列席を試みていますが、
受け入れられずに士族となっています。
明治12年、死去。
立石木下家は羽柴姓に改姓していますが、
豊臣秀吉に所縁する羽柴家は、
この一族だけとされているようです。
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城下にあった日向街道の宿場。
