①/②/③
つづき。
19日。
風が収まり、卯の中刻に①出立。
案内を雇い②日金山に登る。
6万石熱海15~6丁にして卜澤の地蔵あり。
※百萬体地蔵尊か?
28~9丁の辺り行って川名邊より、
鎌倉辺りの海岸が眼下に見えた。
38~9丁の辺りで満眼の墓がある。
※満眼はどういう人か不明。
僧侶っぽい名前ですが・・。
これより10丁余登って日金の銅佛地蔵あり。
※東光寺の延命地蔵尊と思われます。
そこに茅葺の家5~6軒があった。
更に10丁余り登ると近国が皆見る。
風が強い時には越えられないらしい。
沼津、三島、サツタに至る海岸は顯然たり。
少し登ると周りに高い山はないが、
富士は高く関東もまた小さかった。
ここは箱根熱海の中間である。
この辺りから雪が深くなり、
猪や鹿の足跡があった。
高い場所を登って低い場所を降り、
③箱根に出ると湖水が真下に見える。
午の下刻に箱根市中に降り、
川田に至って関門を通った。
箱根権現社に参拝。
雪深く申の刻に谷に降りて、
駿河屋に宿泊した。
20日。
寅の下刻に出立して暁に④湯本に降る。
辰の上刻に⑤小田原に出て、
大丸屋の主人を訪ねたが留守で会えない。
⑥梅澤に至りツタ屋で昼食。
⑦大磯で東海道の視察を行う小使に逢い、
陣営の安否を聞いて別れた。
大磯を過ぎて⑧平塚で小休し、
⑨藤澤に至って宿を求めたが、
丁度長崎奉行永井公の宿泊中であり、
※当時の長崎奉行は水野忠徳と大沢安宅。
永井姓の長崎奉行は永井直廉が最後で、
寛政4年(1792)在任中に死去しています。
桂の勘違いでしょう。
どこも開いていなかった為、
引き返してツタ屋に宿泊した。
12/19~20の行程。
21日。
卯ノ中刻に①出立。
辰の中刻に②長谷の観音に至り、
そこから由比ヶ浜、小壷坂を巡り、
巳ノ下刻に葉山の大文字屋で昼食して、
申ノ刻に帰陣。
すぐに山田氏に会いに行き、
※山田宇右衛門か?
また益田木原に至り報告を行った。
※益田は家老の益田親施でしょう。
木原はわかりません。
12/21の行程。
以上が桂小五郎の伊豆記事の行程です。
葉山から藩邸までの行程は端折られ、
どういうルートかは不明ですが、
東海道で帰ったものと思われます。
葉山で昼食を取ってから、
申ノ刻(午後3時~5時)に帰ってますので、
もしかすると駕籠を使ったかも?
日記はその後も続いていますが、
通常の日々に戻って撃剣を行っており、
ここで終了と致します。
①/②/③
■関連記事■
・記事 桂小五郎①
桂小五郎の旅日記。
・吉田松陰の浦賀行①
吉田松陰の浦賀視察。
・吉田松陰の三月二十七日夜の記①
吉田松陰の密航未遂事件。
