吉田松陰の三月二十七日夜の記①

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嘉永7年3月27日
吉田松陰金子重輔と共に密航を企て、
下田米国艦に乗船を交渉しますが、
拒否されて自首しました。
2人は伝馬町獄舎に収容された後、
国許での蟄居処分の判決を受けて、
へ檻送された後に松陰は野山獄
金子は岩倉獄に収容されました。
そこで松陰は密航について記しており、
その日の様子が語られています。

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先書の高教に云はく、
汝獄に下る、國に於て何ぞ益せん」と。
この言頂門の一針、瑟縮地に入らん。
※先日の兄の手紙の高教に曰く、
お前は牢に入ったが、
 何か国の役に立ったか?

 この言葉は痛烈な戒めであり、
 縮み上がってしまった。

※※実兄杉梅太郎が松陰に送った手紙。
  安政元年11月9日付の書簡。
併しかくいへば、
朱雲張禹を斬らんことを請び、
胡銓秦檜を斬らんことを請び、
而して一は後復た仕へず、
一は邉裔に貶竄せらる、
亦何ぞに益せん。
※併せていえば前漢の朱雲が、
 皇帝に張禹を斬ることを直訴し、
 宋の胡銓も秦檜を斬ることを乞うたが、
 前者はその後に出仕する事はなく、
 後者は降官のうえ辺境の地に送られた。
 これは漢や宋の役には立たなかったのか?

赤穂義士は讐を復して死を賜ひ、
伯夷叔齊は暴を悪みて餓死す。
亦何ぞ益せん。
※赤穂義士は復讐を果して賜死し、
 伯夷と叔齊はの穀物を食べるのを恥じ、
 最期は餓死してしまった。
 これも何の役にも立たなかったのか?

故に君子はかくはいはず、
聖人百世の師なり云々と云うふ。
※故に君子をそんな事は言わず、
 聖人は彼らを百世の師であるという。

且つ弟が輩の爲す所、
朱・胡がする所に比すれば頗る萬全を期す
然れども事敗れてここに至りしは天なり、
命なり。是を以って議せらる、
亦何ぞ他言せん。
※且つ自分がした事は朱雲や胡銓に比べれば、
 充分な考えのあった事であった。
 然れども失敗してしてしまったのは天命。
 この事を言われれば閉口するしかない。

但だ僕が事發覺の曲折は人多く知らざるべし。
因って三月二十七日夜の記を作り、
高鑒を希ふのみ
※但し僕の事件が発覚した経緯は、
 余り知られてはいない。
 よって三月二十七日夜の記を書いて、
 前例とする事を望む。


 三月二十七日夜の記
三月二十七日、夕方、
柿崎の海濱を巡検するに、
辨天社下に漁舟二隻泛べり。
※3月27日の夕方に柿崎の浜を歩くと、
 弁天社の下に漁舟が二艘あった。

是れ究竟なりと大いに喜び、
蓮臺寺村の宿へ帰り、湯へ入り、
夜食を認め、下田の宿へ往くとて立出で、
(下田にて名主夜行を禁ずる故、
一里隔てて蓬臺寺村の湯入場へも、
やどをとり、下田へは蓬臺寺へ宿すと云い、
蓬臺寺へは下田へ宿すと云いて、
夜行して夷船の様子彼是見廻り、
多く野宿をなす)
武山の下海岸び夜五つ過ぎまで頣す。
※これは幸運であると大いに喜び、
 蓮台寺の宿に帰って湯に入り、
 夜食を食べた後に下田に行くと出て行き、
 蓮台寺には下田に泊まると言い、
 (下田は夜の外出が禁止されている為、
 一里離れた蓮台寺村で入浴するも、
 下田には蓮台寺村に泊まると言って、
 蓮台寺にも下田に泊まると言い、
 夜間外出して夷船の様子を見ており、
 殆ど野宿をしていた)

 武山の下の海岸で午後8時過ぎまで潜む。
五つ過ぎに此を去り、辨天社に至る。
然るに潮頭退ぎて漁舟二隻ともに沙上にあり、
故に辨天社中に入り安寝す。
※午後8時過ぎにこれを去り弁天社に至った。
 だが引き潮で漁舟は二艘共に砂の上で、
 仕方なく弁天社の中で眠った。

八ッ時、社を出でて舟の所へ往く、
潮進み舟泛べり。
因って押出さんとて舟に上る。
然るに櫓ぐひなし、
因って犢鼻褌にて縛り、
舟の兩旁へ縛り付け、
澁木生と力を極めて押出す。
褌たゆ、帯を解き、かいを縛り叉押してゆく。
※午前2時に社を出て舟の場所に行く。
 潮は満ちて舟は浮かんでいた。
 よって船出しようと舟に乗る。
 しかし櫓杭が無かったので、
 櫂をふんどしで舟の両側に縛り、
 渋木生と共に力を込めて押し出した。
※※渋木生は金子重輔の変名。


つづく。
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