結城藩江戸家老水野甚四郎の墓が、
結城市の光福寺にあります。
甚四郎は藩主家支流の家老家出身で、
佐幕派の江戸家老でした。
幕府崩壊後もその姿勢は変わらず、
国許の恭順派家老小場兵馬の進言により、
一時的に罷免されますが、
藩主水野勝知が元々佐幕思想であった為か、
再び勝知を説得して旧幕府を支持させます。
この動きに驚いた国許恭順派は、
再々度の勝知の説得を諦め、
新たな藩主を擁立して結城城を占領。
これに激怒した勝知は彰義隊を率い、
自らの城である結城城を攻撃し、
恭順派から結城城を取り戻していますが、
新政府軍によって結城城は砲撃を受け、
勝知ら佐幕派は抗戦せずに逃亡します。
勝知ら佐幕派は逃亡していますが、
甚四郎はこれに加わらずに自首し、
取り調べを受けた後に切腹しました。
「光福寺本堂」。
創建の時期は明らかではありませんが、
少なくとも室町時代以前の創建のようです。
本堂向かって左手に墓地が広がっており、
気合い入れて探そうと足を踏み入ると、
墓は入ってすぐの場所にありました。
「水埜甚四郎勝澂 勝澂之妻青山氏 墓」。
墓所に入ってすぐの区画の角にあります。
僅か2万石の藩に時勢を動かす力は無く、
幕府に殉じる事は滅びの道しかありません。
彼の人柄を語る文献は少なく、
佐幕を貫いたその思惑はわかりませんが、
状況的には私欲からとは思えません。
宗家筋が一戦も交えずに恭順する事が、
許せなかったのかもしれませんね。
光福寺には甚四郎の墓の他、
下野戦争で戦死した土佐藩士上田楠次の墓、
須坂藩士土屋要助の墓、
須坂藩兵の合葬墓もありますが、
時間の都合で探すのは断念しました。
■関連記事■
・茨城県結城市 結城城跡
結城藩水野宗家の居城跡。
・茨城県結城市 孝顕寺/水野勝知墓所
結城藩主水野勝知の墓。