孝顕寺は結城家15代結城政朝が創建し、
始めは永正寺を称していましたが、
結城家を継いだ徳川家康の次男結城秀康が、
現在地に移転させ孝顕寺と改称しています。
秀康が越前に転封となった際も、
秀康は孝顕寺を福井に建立していますが、
結城の孝顕寺もそのまま残されました。
「山門」。
全体を朱色に塗った楼門形式の山門には、
結城家、松平家、水野家の家紋が掲げられ、
歴代領主の庇護を受けた事がわかります。
江戸時代中期の建立。
「本堂」。
最近再建された本堂。
水野家入封後は国元菩提寺とされますが、
歴代藩主は江戸の常林寺に葬られており、
墓は10代藩主水野勝知のみです。
「小場兵馬自刃之處」。
国家老小場兵馬は新政府への恭順を主張し、
藩主勝知が幕府に殉ずる姿勢を崩さない為、
8代水野勝進の次男水野勝寛を擁立。
結城城を占拠して勝知に対抗しました。
激怒した勝知は彰義隊を率いて城を包囲し、
砲撃を加えて兵馬を捕縛。
これを聞いた新政府軍は結城城を攻撃し、
彰義隊や藩内佐幕派を追い散らします。
兵馬は新政府軍に開放されましたが、
藩の混乱を招いた事に自らの責任を感じ、
孝顕寺にて自刃しました。
兵馬の墓もあるはずですが確認できず。
墓地の一本道を奥に進み勝知の墓へ。
「水野家墓所」。
前記した様に歴代藩主の墓は常林寺にあり、
ここにあるのは10代水野勝知の墓のみ。
「従三位水野勝知之墓(中央)」。
勝知は二本松藩9代藩主丹羽長富の八男で、
兄には二本松藩10代藩主丹羽長国(六男)、
淀藩6代藩主稲葉正邦(七男)がいました。
家臣らが藩主勝知を廃そうとした様に、
淀藩も正邦の許可なく寝返っており、
養子藩主と国元藩士の主従関係が、
確固たるものでは無い様子が伺えます。
養子先の所領が少し北寄りにあったなら、
もっと新政府と対峙していたかも?
勝知は新政府軍に捕らえられた後、
津藩や鶴牧藩預かりとなりました。
大正8年、死去。
孝顕寺を出て近くの称名寺へ。
「称名寺本堂」。
親鸞の高弟真仏の開基した寺。
結城家初代結城朝光は浄土真宗に帰依し、
自らの法号より称名寺と名付けました。
「結城朝光の墓」。
小山朝光は結城郡の地頭に任じられ、
結城朝光を名乗って結城家の祖となります。
以後は18代秀康が越前に移封されるまで、
結城郡は結城家が支配していました。
称名寺には朝光の他に朝広、広綱、時広と、
4代までの結城家当主の墓があるようです。
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