西条藩は一柳宗家が6万3000石で入封した藩。
初代一柳直盛は国入り前に病没してしまい、
この遺領を直盛の3人の息子が分割し、
長男一柳直重が3万石で西条藩を継ぎ、
次男直家が2万8000石で川之江を、
三男直頼が1万石で小松を相続しました。
※直家の系譜は後に小野に本拠を移して小野藩に、
直頼の系譜は小松藩として続きます。
しかし直重の子直興は、職務怠慢や失策の為に改易。
直興は加賀藩に預けられてそこで死去し、
西条は5年間幕府領となった後、
紀州藩初代徳川頼宣の三男松平頼純に与えられ、
西条藩は紀州藩の御連枝として再び立藩しました。
「西条陣屋跡(愛媛県立西条高等学校)」。
現在の西条陣屋は県立西条高等学校の敷地となり、
水堀がそのまま残されています。
「大手門(西条高等学校正門)」。
陣屋の大手門は高校の正門として利用されており、
藩政時代と同じ位置に現存しています。
「西条藩邸址」。
正門の脇の土手(土塀?)に設置された跡碑。
「北御門」。
正門より南に進んだ場所にある北御門。
文字通り陣屋の北側の門に建てられていたもの。
廃藩後、裁判所、新居郡役所、武徳殿と移築され、
その後、西条高校に譲渡されて保存されたようです。
西条市は水の郷とされるように、
各地に「うちぬき」と呼ばれる自噴井があり、
石鎚連峰からの豊富な伏流水が、
この水堀に注ぎこまれるようです。
陣屋跡を出て東側に約500mにある妙昌寺へ。
「西条陣屋移築玄関」。
西条陣屋の玄関が妙昌寺に移築されています。
西条藩は藩主の国入りの無い定府の藩ですが、
流石に御連枝の陣屋といったところか、
この玄関から察するに立派な建物だった様子。
西条藩は藩制全般を通じて紀州藩との繋がりが強く、
2代藩主が紀州藩6代藩主徳川宗直に、
5代藩主が紀州藩9代藩主徳川治貞になっています。
11代藩主徳川斉順が継嗣無く死去した際も、
隠居した紀州藩10代藩主徳川治宝が、
9代松平頼学を12代藩主に推しています。
※この時は紀州藩附家老水野忠央の妨害により、
御三卿清水家より徳川斉彊を迎えました。
西条藩は大勢として宗藩にならって佐幕でしたが、
国元には千種善右衛門、三浦五助(後に紀州藩に転籍)、
妻木唯右衛門ら尊皇攘夷を唱える藩士もおり、
定府大名である藩主の帰国、領国の海防強化、
京都警備出兵を要求する建白書を藩主に提出しています。
10代藩主松平頼英は将軍徳川家茂に従って上洛、
この際に三浦らの強い要求を入れて西条に初めて入り、
領内の海岸を巡視、垣生海岸で砲術訓練を実施しました。
※これは特別の帰国で定府をやめたわけではありません。
第二次長州征伐では、紀州藩主徳川茂承が総督となり、
西条藩も宗家の助力として広島に出兵していますが、
鳥羽伏見の戦いが新政府軍の勝利で終わると、
いち早く恭順の意を示し、京都守衛の兵を出した他、
藩主頼英も慶応4年4月に参内。
また、江戸詰藩兵が吹上御門警衛、水道橋関門警衛を行い、
明治2年2月まで勤めています。
【西条藩】
藩庁:西条陣屋
藩主家:紀州松平家(紀州徳川家御連枝)
分類:3万石、親藩大名(定府)
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・東京都大田区 池上本門寺(西条藩紀州松平家墓所)
西条藩紀州松平家の歴代墓所。
・和歌山県和歌山市 和歌山城
宗家である紀州徳川家の居城跡。