宮城県大崎市 天性寺/坂本大炊墓所

坂本大炊は仙台藩士坂本隆景の子で、
開明派であり洋式砲術にも長けており、
目付小姓頭に任じられて、
京都探索方として派遣されました。

仙台藩会津征討勅命が下り、
錦旗が大炊に授けられると、
これを身体に巻きつけて仙台に走ります。
しかし帰ってみると藩論は反新政府に傾き、
大炊は勤皇派として罷免されましたが、
後に復帰して白河攻めの参謀となり、
白河の戦いで討死しました。
その坂本大炊の墓が天性寺にあります。


天性寺」。
天性寺は節婦たつの墓のある寺として知られ、
立派な山門や本堂があります。

たつは鈴木八五郎という下級藩士の一人娘で、
八五郎には男子ができなかった為、
たつに八太夫という婿をとらせました。
八太夫とたつの夫婦仲はよく、
やがて男子(娘の説も)を出産。
2人は仲睦まじく暮らしましたが、
不幸にも八太夫はらい病を患ってしまい、
八五郎は八太夫を忌み嫌うようになる。
なんとか八太夫を追い出そうと思案して、
百姓の家から籾俵を盗んで八太夫の仕業とし、
濡れ衣を着せて藩に訴えました。

藩の評定所は八五郎と八太夫を召し出し、
事情を聞くと双方の言い分は全く異なり、
たつが証人として出廷することとなります。
父を支持すれば夫に無実の罪を着せることになり、
夫を支持すれば親不孝者となると悩み、
遺書をしたためて子と共に自害してしまいました。

このたつの行為は父に孝夫に操を貫き、
身命を投げうった行為として称賛され、
これを聞き及んだ5代藩主伊達吉村は、
八五郎の罪を許して、たつを手厚く葬らせ、
藩儒田辺希元に命じて碑を建てさせています。


節婦鈴木氏碑(右)」、
節婦を弔ふ哥弁序(左)」。
たつを顕彰する碑が山門の向かって右手にあります。
双方共に明治期のもので、
吉村が建てさせたものではありません。
左側の碑は国学者安田光則によるもの。


節婦鈴木氏辰之墓(中央)」。
山門向かって左手にあるたつの墓碑。
この他に境内に霊廟付きの墓もあったのですが、
それがたつのものとわからず、
写真は撮っていません。


本堂」。
立派な本堂。
平成元年に再建されたもののようですが、
古風な外観を保っています。


坂本大炊平隆中之墓(右)」、
鈴木新三郎夫婦墓(左)」。
本堂の西側にある坂本大炊の墓。
大炊は中央の政情に通じた勤皇派でしたが、
酒宴で「会津如きは仙台一藩にて征討可能」と漏らし、
これを聞いた大久保利通が朝廷に働きかけて勅命が出され、
大炊はその勅命と錦旗を持ち帰る事になります。
しかし藩は奥羽鎮撫総督府の高圧的な態度に反感を強め、
次第に反新政府の方向へ進んでゆき、
世良修蔵を殺害して九条道孝を軟禁し、
東北諸藩に呼び掛けて奥羽越列藩同盟を結成。
大炊は勤皇派とみなされていましたが、
藩論が確定されるとこれに従い、
白河攻めの参謀として参戦します。
総崩れする味方の劣勢を挽回する為に、
手勢を率いて阿武隈川を渡河しますが、
渡り終えた時に一発の銃弾が大炊の頭部を捉え、
瀕死の重傷を負ってそのまま絶命。
薩長派と目された事を悔やみ、
死ぬ覚悟での出陣であったともいう。

隣の墓は大炊の忠臣であった鈴木新三郎の墓ですが、
この人物がたつと血縁があったのかはわかりません。

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