三河国桜井を領した桜井松平家は、
宗家5代松平長親の次男松平信定を祖とし、
初代から4代松平忠正まで宗家に反抗し、
完全に従属するのは松平家康に敗れてから。
その後は5~7代まで20歳代で早逝し、
※7代松平忠頼は囲碁の喧嘩の仲裁に入り、
逆上した相手によって刺殺されています。
無嫡となって一時改易されていますが、
忠頼の子松平忠重が旗本として再興。
後に加増されて大名に復帰し、
佐貫藩、田中藩、掛川藩と加増転封されて、
次代松平忠倶が飯山藩に移封となった後、
松平忠喬の代に尼崎藩に入封しました。
「深正院」。
初代忠喬が父の菩提を弔うために建立し、
以後は桜井松平家の菩提寺となり、
後に忠喬もここに葬られました。
かつての本堂は尼崎城本丸御殿の金之間で、
廃城の際の払い下げで移築されましたが、
空襲によって焼失してしまったという。
「霊臺院殿四品石州刺史
仁譽興徳道融大居士」。
尼崎藩初代藩主松平忠喬の墓。
朝鮮通信使接待役、
日光東照宮警護等を務めたという。
「従四位子爵櫻井忠興墓」。
尼崎藩7代藩主松平忠興の墓。
文久元年に藩主に就任した最後の藩主。
大政奉還後の上京を諸大名が辞退する中、
旧幕府に断りを入れて参内。
長州藩の藩兵が西宮に現れた際にも、
旧幕府へその対処を問い合わせており、
徳川家への配慮は怠らなかったようですが、
新政府より松平姓の改称を求められると、
躊躇なく桜井姓を名乗っています。
博愛社(後の日本赤十字社)の設立メンバー。
明治28年、死去。
ここには5代松平忠誨、
6代松平忠栄の墓もあったようですが、
全く気が付かず・・。
6代忠栄は幕末期の藩主なのに・・。
また機会を作って再訪します。
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・兵庫県尼崎市 尼崎城跡
尼崎藩桜井松平家の居城跡。