尼崎に天守閣なんてあったっけ?
以前大阪に住んでいた僕は、
何度も尼崎には足を運んでいましたが、
そんな天守の全く記憶が全く無い・・・。
それもそのはず。
尼崎城の天守は去年再建されたもの。
この真新しい天守は個人の寄付で建てられ、
尼崎市に寄付されたものだという。
「尼崎城址公園」。
天守を私財で再建し市に寄付した人物は、
旧ミドリ電化(現エディオン)創業者安保詮。
尼崎で前身みどり電気を開店し、
その後は家電量販店として成長。
90近い店舗を展開していたようですが、
現在はエディオンに吸収合併されています。
既に創業者は一線を引いており、
創業の地に恩返しをしたいと、
尼崎市に天守閣の再建を市に申し出ました。
寄付は10億円とのこと。
「戸田左衛門氏鉄公顕彰碑」。
尼崎城を築城した戸田氏鉄の顕彰碑。
氏鉄は尼崎城の築城の他、
城下町の整備や治水事業で、
尼崎の基礎を築いたとされています。
「尼崎城天守閣」。
SRC製地上5階建ての立派な天守。
ただ残念ながら再建された場所は、
本来の場所ではなく三ノ丸の跡地。
天守のあった本丸跡は小学校となっており、
天守の建てられる場所ではありませんので、
三之丸跡に建てられることになったとの事。
正面。
出来て間もないのですが、
すでに市民の憩いの場として定着し、
キャッチボールやラジコンをする子供達や、
散歩するご老人、カップルもいました。
城址公園を出て櫻井神社へ。
「櫻井神社」。
尼崎藩主桜井松平家の歴代藩主を祀る神社。
実はここ嵐ファンの聖地なんだとか。
コンサート当選の祈願に来たりして、
絵馬はほとんど嵐関係だったりします。
「博愛社記念碑」。
元藩主桜井忠興らが設立した博愛社記念碑。
明治10年に西南戦争が勃発すると、
忠興は元龍岡藩主大給恒や、
元佐賀藩士佐野常民らと博愛社を設立し、
負傷者の救護班を派遣しました。
これが日本赤十字社の前身となっています。
「尼崎城址」碑。
尼崎市立明城小学校の南側外壁にある跡碑。
碑の建つグランド周辺は二ノ丸あたりで、
本丸跡は小学校の校舎や、
尼崎市立文化財収蔵庫周辺であるという。
尼崎には尼崎城が出来る前、
大物城という城がありましたが、
どこにあったのか正確な場所は不明です。
尼崎を支配した建部光重の子建部政長は、
大阪の陣の活躍によって尼崎藩を立藩。
後に政長は林田藩へ転封となって、
代わって戸田氏鉄が入封しました。
氏鉄は城を廃し新たに築城する訳ですが、
大物城を取り壊した上に築城したとも、
別の場所であったともされ、
正確な事はよくわかっていないらしい。
氏鉄は後に大垣藩に加増転封となり、
青山幸成が5万石で入り4代続きます。
その後4代青山幸秀が飯山藩に転封となり、
掛川藩から松平忠喬が4万8000石で入封。
桜井松平家が7代続いて明治を迎えました。
幕末の6代藩主松平忠栄は開国に反対し、
鎖国を堅持するように幕府に提言しており、
譜代藩ながら攘夷派であったようです。
最後の藩主となった7代藩主松平忠興は、
朝廷からの上京命令を諸大名が辞退する中、
旧幕府に断りを入れたうえで上京。
いち早く朝廷に参内しました。
長州藩の千数百名が西宮に現れた際には、
旧幕府へその対処を問い合わせ、
差し支えなしの回答を得て、
長州藩兵を領内に入れています。
その後の鳥羽伏見の戦いには、
西国筋の要所を守備する尼崎藩は参加せず、
戦いが新政府軍の勝利に終わると、
勤皇の意志を明らかにします。
松平姓を捨てるよう命じられると、
躊躇なく桜井姓に改める事を表明。
新政府もいち早い尼崎藩の行動を認め、
三田藩と共に摂津天領支配を任されました。
城の遺構は堀の一部であった庄下川の他は、
殆ど残っていません。
しかし個人の寄付や市の努力によって、
本来とは違えど天守が再建されています。
勿論本来の姿での再建が望ましいのですが、
不可能ならば不可能なりに、
柔軟な考えで上手に再建させるのも、
それはそれで良い事。
尼崎城は梅田から10分の最新の天守。
一度は行っておくべきですね。
【尼崎藩】
藩庁:尼崎城
藩主家:桜井松平家
分類:4万石、譜代大名
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