大阪府豊中市 麻田陣屋跡

阪急宝塚線大坂モノレールの乗換駅の蛍池駅
駅西側「とよなか起業・チャレンジセンター」周辺に、
かつて麻田藩の藩庁麻田陣屋がありました。

本来ならは駅名は「麻田駅」になる予定でしたが、
阪急創業者小林一三の意向で「蛍池駅」となっています。
※実際の蛍ヶ池は、駅から400mも離れています。
その後、駅周辺の地名は駅名から「蛍池」となり、
麻田」という地名は完全に無くなってしまいます。
駅名が「麻田」では面白くない」というのが理由らしい。


麻田藩旧跡」。
「とよなか起業・チャレンジセンター」前の跡碑。
結構大きな石碑ですが、
陣屋のあった場所に遺構はありません。

陣屋の移築門が市内に点在しているようですが、
全て巡るのは時間的、体力的に不可能でしたので、
一駅先の芝原駅すぐの長屋門に行ってみました。


麻田藩陣屋門」。
廃藩置県後に払い下げられ移築された門ですが、
陣屋のどこの門であったかは定かではないようで、
形状から江戸時代後期のものとのこと。
青木家の家紋「洲浜」が屋根瓦に刻まれています。

この他に、報恩寺正光寺の山門や、
民家数件に移築門があり、
報恩寺には陣屋御殿玄関が移築されていますが、
残念ながら今回は訪問を断念しました。

藩祖青木一重は、美濃の豪族青木重直の子でしたが、
父の元を離れ今川氏真に仕えました。
今川家の滅亡後は隠遁していましたが、
徳川家康に招かれて仕える事となり、
数々の戦で武功を挙げてます。
その後、父が仕える丹羽長秀の家臣となり、
ここでも武功を挙げました。
長秀が腹中の病で死去した後は豊臣秀吉に仕え、
黄母衣衆に抜擢され、七手組にも選抜されています。

秀吉の死後も大坂方に仕え、大坂冬の陣にも参戦。
冬の陣後の使節として駿府に赴いた際、
家康に仕えていた弟の青木可直を殺すと脅され、
やむなく隠棲。大坂夏の陣には参加しませんでした。
その後、再び家康に仕えて麻田藩初代藩主となっています。

以後、転封もなく青木家が麻田を統治しますが、
江戸時代中期以降は藩財政が慢性的な窮迫に陥り、
豪農や町人からの借用や、藩札を発行するなどしますが、
目立った改善はされず、幕末期には藩財政の管理が、
領内の商人の手に委ねられる程であったという。

最後の藩主青木重義は、安政3年に4歳で家督相続。
幕末期に幼い藩主を擁し、財政に困窮した小藩は、
何ら目立った行動は無く、
鳥羽伏見の戦いの後に新政府に恭順しています。

【麻田藩】
藩庁:麻田陣屋
藩主家:青木家
分類:1万2000石、外様大名

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