戦国時代に高槻を領した高山右近。
蒲生氏郷や黒田如水等にキリスト教を勧め、
豊臣秀吉のバテレン追放令で、
他のキリシタン大名が改宗する中、
地位や領地を捨ててまでも信仰を守り、
最終的にマニラに追放されています。
彼は築城の名手としても知られ、
高槻城も彼によって改修された城ですが、
元々は平安時代から存在した古い城でした。
戦国時代には和田惟政が城主となりますが、
惟政は荒木村重との戦いで戦死し、
その子である和田惟長が城主となり、
和田家の重臣であった右近と、
その父高山友照が相談役となります。
しかしそれを良く思わない者が中傷した為、
惟長は高山親子の殺害を計画。
これを知った親子は惟長を返り討ちにし、
村重の支配下に入り高槻城主となりました。
高山親子は高槻城の改修を開始し、
当時最新技術の輪郭式平城が完成。
後に豊臣政権下で右近は丹波亀山城へ転封。
高槻城は豊臣家の直轄城となった後、
関ヶ原の戦いを経て徳川家の城となり、
大阪の陣での後方拠点として、
徳川家の勝利に貢献しました。
後に内藤信正が城主となって高槻藩が立藩。
土岐家、形原松平家、岡部家を経て、
永井直勝の次男永井直清が入封し、
以降は永井家が廃藩置県まで治めています。
「城跡公園」。
高槻城は廃藩後の開発によって、
破壊され尽くしています。
これほど綺麗に無くなるのも珍しいほど。
とはいえ市が再建の努力しているようで、
三ノ丸だった場所を公園化させ、
石垣や庭園などが造られています。
「高山右近像」。
公園内に建てられた高山右近の銅像。
なんとも線の細い感じに造られており、
戦国武将には見えませんね。
美麗な感じで漫画にでも出てきそう。
「大阪府立槻の木高等学校」。
高槻城の本丸跡は現在、
槻の木高校の敷地となっています。
「高槻城跡」碑。
槻の木高等学校の北東角にある跡碑。
「二ノ丸跡」。
槻の木高校北側の二ノ丸跡は現在工事中。
二ノ丸御殿が建てられていた様です。
「野見神社」。
高槻城三ノ丸にあった城内守護の神社で、
牛頭天王社として崇敬されていましたが、
キリシタン大名の右近によって破壊され、
御神体は岩清水八幡宮へ移され、
後に入封した松平家信が再興。
高槻城の守り神として信仰されましたが、
明治元年の神仏分離によって、
祭神の牛頭天王は須佐之男命となり、
さらに野見宿禰命を合祀し、
現在の神社名に改称しています。
ある意味では、高槻城の最大の遺構かも?
「高槻城内高麗門」。
遺構の殆ど無い高槻城ですが、
城門が本行寺に移築されていますが、
どこにあった門かは判っていません。
ちなみにこの本行寺には、
幕末の漢詩人藤井竹外の墓があります。
高槻藩は「幕末の洞ヶ峠」と揶揄され、
鳥羽伏見の戦いで日和見を決めたようです。
「洞ヶ峠」とはかつて山崎の合戦で、
明智光秀と羽柴秀吉が戦った際、
筒井順慶が両陣営から加勢を依頼され、
洞ヶ峠まで兵を勧めた後に、
戦況を見守った事に由来する故事で、
日和見主義の代名詞となっていました。
※実際に洞ヶ峠に布陣したのは光秀でした。
そういう汚名を着せられた高槻藩でしたが、
実際には日和見したわけではなく、
動けなかったのが事実のようです。
京都火消役や警備などに藩兵が出動中。
藩主も江戸在勤中。
3万6000石の小藩には、
どうすることも出来ませんでした。
実際に日和見した藩は結構あるわけですし、
日和見が悪いとも言い切れません。
戦場から近かっただけに目立ったようです。
【高槻藩】
藩庁:高槻城
藩主家:直清流永井家
分類:3万6000石、譜代大名
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