柳河藩立花家の初代藩主立花宗茂は、
大友宗麟配下の武人高橋紹運の長男で、
立花道雪の養嗣子となった人物。
この両雄を父と養父に持つサラブレッドは、
後に宗麟が豊臣秀吉に下った際に、
豊臣家の直参家臣となりました。
これは秀吉が宗茂を譲るように命じたとも、
宗麟が家中の逸材である宗茂を譲って、
自分の忠義を示したともされますが、
兎に角それほどの人物だったという事です。
九州随一、西国無双などと称され、
戦国最強の武将としても評価か高く、
九州征伐、小田原征伐、朝鮮出兵に参戦し、
目覚しい武勲を挙げました。
秀吉死後は徳川家康に誘われていますが、
豊臣家への恩義を重んじて拒絶。
西軍に属して大津城を攻め落としましたが、
関ヶ原の戦いには参加する事ができず、
西軍敗北の報を受けて退却しています。
宗茂は大坂城で徹底抗戦を主張しますが、
総大将毛利輝元は恭順する事を決定し、
仕方なく宗茂は領地の柳川へ帰国。
国許で黒田孝高、加藤清正等に包囲され、
柳川城で篭城の構えをみせますが、
孝高や清正の説得により降伏していますが、
改易された後に家康に召し出され、
徳川秀忠の御伽衆のひとりとなり、
棚倉1万石を与えられました。
大坂夏の陣では秀忠の軍師参謀を勤め、
数々の戦況予測を的中させた他、
その後の千姫事件でも活躍し、
旧領の柳河10万9200石を拝領。
西軍大名が10万石以上に復帰したのは、
宗茂と丹羽長重の二人だけで、
旧領に復帰した例は宗茂の一件のみでした。
とはいえ御伽衆の宗茂は国許へは帰らず、
秀忠や次代徳川家光に近侍していますが、
島原の乱が起こるとその討伐に参戦し、
豊富な知識と経験を生かしての戦況予測は、
参戦した諸将に賞賛されましたが、
その4年後に死去しています。
柳河藩はその後、
江戸時代を通じて立花家が治めています。
柳川といえば「川下り」でしょう。
柳川城のお堀をどんこ舟で巡るのですが、
嫁さんに「川下り」に行こう!と誘うと、
とても怪訝な顔。
「まだ無理でしょう?」との事。
カヌーで下るようなのを想像したようで、
たしかに「川下り」となっていますが、
川を下るわけではありません。
「川下り」が川下りではない事を納得させ、
家族で乗ることになりました。
1時間コースと30分コースがあり、
悩んだ挙句に30分コースを選びました。
「おしっこー」とか言い出したら大変だし、
みよちゃんは怖がりなので、
お気に召さなかったら困るので・・。
とにかく乗船して堀を優雅に進みます。
風情のある水路。
案の定みよちゃんは怖がっていましたが、
この頃になると馴れてきたのか、
楽しんで色々喋っていました。
もちろんゆきちゃんは元気いっぱいです。
藩主専用の船着場。
船頭さん曰く藩主のみ使用できた船着場で、
別邸から舟に乗る際に利用したようです。
「御花」跡。
5代藩主立花貞俶が建てた藩主別邸で、
二ノ丸奥屋敷が手狭となった為に建設され、
「御花」や「御花畠」と呼ばれたようです。
現在は料亭「柳川藩主立花邸 御花」となり、
庭園松濤園は国の名勝に指定されています。
藩主の居住はあくまで本丸御殿でしたので、
御殿と御花とを行き来していたようですが、
12代立花鑑寛は御花に居住したようです。
舟がギリギリくぐれるような状態で、
木が立ち塞がりますが普通に通ります。
これにはウチの子二人も大興奮。
ナマコ壁が美しい「殿の倉」。
先ほどの藩主別邸の土蔵で、
現在は「立花家史料館「殿の倉」」として、
立花家伝来の美術品などを展示しています。
船頭さんとゆきちゃん。
この頃には舟内を走り回っていました。
落ちないかヒヤヒヤですね。
後ろの赤い石碑は北原白秋の歌碑水影の碑。
「我ついに還り来にけり倉下や
揺るる水照穏に焼けつつ」
柳川出身の白秋が帰郷した際に、
この土蔵の白壁を見て詠んだ歌という。
橋の下を通る。
コレは高い方でもっと低い橋もありました。
30分コースでも多くの橋の下を通ります。
思ったより喜んでくれて嬉しかったですね。
1時間コースにすれば良かった。
「終わっちゃった~」と残念そうな二人。
連れてきた甲斐がありました。
さて、「川下り」を終えて柳川城跡へ。
「柳川城址」。
柳川城の本丸跡は現在、
柳川市立柳城中学校の敷地となっています。
隣の柳川高等学校の校舎辺りが二ノ丸跡。
「へそくり山」と呼ばれる石垣の丘があり、
その位置辺りに天守が建てられていました。
「へそくり山(通称)」。
柳川城は明治5年の火災で本丸御殿及び、
二ノ丸建物を焼失しています。
明治8年に城跡と堀が競売で私有地となり、
堀には蓮が植えられて二ノ丸跡は畑に、
本丸跡は牧場となりました。
後に行政が買い戻して城跡活用が議論され、
昭和3年に柳城公園として整備。
その際に造成されたのがへそくり山です。
ネット等では天守台となっていますが、
実際は天守台ではなく、
旧柳城公園の遺構ということになり、
位置的に天守台があった場所でした。
※名の由来は藩主のへそくりが、
埋められているという噂から。
「お地蔵様」。
中心にそびえる木の根元にあるお地蔵様。
花が添えられ綺麗に整えられていますので、
手入れされてる人がいるようですが、
このお地蔵様の由緒はわかりません。
後日市に問い合わせましたが、
いつの間にか置かれていたとの事。
「柳川城址」碑。
城域は本丸跡と二ノ丸跡だけで、
面影はここしか残っていませんが、
堀(水路)をめぐらせた町全体が、
柳川城ともいえます。
へそくり山の周りに石垣が残っていますが、
これらは公園の造成時に組まれたもの。
最後の藩主立花鑑寛は、
改革派の家老立花壱岐を登用し、
安政の改革を行いました。
壱岐は横井小楠や橋本左内らと親交があり、
吉田松陰も壱岐を知っていたようです。
非常に開明的な人物だったとされ、
藩主の鑑寛は藩政の全権を壱岐に一任。
能力による役人登用と不要な役人の整理。
租税緩和、産業奨励など先進的改革を進め、
大きく財政は好転しています。
しかし、文久元年に病気を患って辞職。
隠居して療養に専念しました。
明治に入ると壱岐は復帰しており、
再度藩政の全権を一任されると、
精鋭で編成された部隊を戊辰戦争に送り、
盤城平の戦いなどで活躍させています。
柳川城は明治5年に炎上して消失。
これは士族反乱を防止する為のともされ、
その結果各地で起こった士族反乱でも、
柳川で動揺は生じなかったとされています。
【柳河藩】
藩庁:柳川城
藩主家:立花宗家
分類:10万9000石、外様大名(準国持)
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