稲荷山は白河戦争(白河口の戦い)の激戦地。
奥羽越列藩同盟軍は稲荷山に兵力を集中し、
新政府軍を迎え撃ちます。
しかしここを攻撃する新政府軍は囮で、
二手に分かれた別動隊が、
側面から白河小峰城を攻撃。
瞬く間に落城して稲荷山は包囲され、
同盟軍は敗走して惨敗となりました。
「稲荷山公園」。
稲荷山は史跡公園として整備されています。
山頂から新政府軍が布陣した小丸山も望め、
戦争の様子を想像することが出来ます。
「白河口 戊辰之碑(右)」、
「戦死者名簿(左)」。
平成27年に建てられた新しい慰霊碑。
白河戦争では、同盟軍927名、
新政府軍113名が戦死したとされ、
その全ての戦死者の名が刻まれています。
「西郷頼母歌碑」。
八握髭翁
うらやまし 角をかくしつ 又のへつ
心のままに 身をもかくしつ
※角や身を隠せるカタツムリが、
羨ましいという意。
八握髭翁は西郷頼母の号。
朝敵会津藩という宿命を背負い、
藩論に逆らい恭順を主張した腰抜け、
切腹せずに生きながらえた臆病者など、
冷酷な世評に晒されたと説明されています。
個人の意見で申し訳ないのですが、
西郷頼母という人物はあまり好きではない。
僕の数少ない嫌いな幕末の人物で、
腰抜け、臆病などという評価は別として、
その生き様に一貫性が無いように思われ、
彼をどうしても好きになれない。
彼が後世にここまで評価される理由は、
家族一同の自刃による悲劇の主として、
彼自身に何の評価があるのか、
さっぱりわからない。
白河の敗戦は頼母の下手な指揮が原因で、
生き様はおろか能力も無かったわけです。
とはいえ頼母自身のこの短歌を読むと、
己を恥じているのは感じられますので、
それだけは救われました。
「権兵衛稲荷神社」。
稲荷山の語源となっている稲荷神社。
由緒がよくわかりませんが、
参道に巨大な御神木が生えて神聖な雰囲気。
震災で多くの狛狐が破損したようですが、
それでも沢山の狛狐が並んでいました。
稲荷山を下りて南西の麓へ。
「銷魂碑」と「戦士墓」。
慶応4年5月1日の稲荷山の戦闘で、
同盟軍側で約700名が戦死したとされ、
戦死墓は地元新町の人々が建立したもの。
銷魂碑は戦死した会津藩士を供養する碑で、
白河口副総督横山主税常守や、
軍事奉行海老名衛門季久ら、
304名の名が刻まれています。
横山は山川兵衛の四男で、
家老横山常徳の養子となり、
常徳の死後の元治元年に家督を継いで、
訪欧使節団の徳川昭武随員として渡欧。
ヨーロッパ諸国を歴訪した後に帰国し、
若年寄に任じられて白河口の副総督に就任。
稲荷山に激励に訪れて銃撃されています。
海老名は軍事奉行として敗戦の責任を取り、
城下の龍興寺で自刃しています。
「長州大垣藩戦死六名墓」。
初戦で戦死した長州藩士3名と、
大垣藩士3名の合葬墓。
当初は薩摩藩士7名も埋葬されたようで、
薩長大垣戦死十三人之墓もあったとのこと。
大正期に鎮護神山に合葬墓が建てられた為、
その薩摩藩の7名を除いて、
現在の墓碑に改められたという。
この他にも白河市内には、
沢山の慰霊碑があるそうですが、
時間の関係で全てを訪問していません。
■関連記事■
・栃木県宇都宮市 戊辰役戦士墓
長岡藩、会津藩戦死者の墓。
・秋田県由利本荘市 山田合戦の跡
山田合戦戦死者の慰霊碑。