富山県富山市 長岡御廟/富山藩前田家墓所

富山藩前田家加賀藩3代前田利常が、
4代前田光高が家督を相続する際に、
次男前田利次が10万石を分与され、
立藩した加賀藩前田家の支流で、
廃藩置県までに13代続いています。

歴代墓所は富山市長岡にある長岡御廟で、
居城を建設しようとした百塚に隣接し、
※当時の富山城は加賀藩の支城でしたが、
 拝領地に城が無かった為に利次が借用し、
 百塚城完成までの仮藩庁としていました。
 その後、財政難で築城が断念されて、
 正式に富山城が藩庁とされています。

利次の死去後に2代前田利甫によって、
築城が断念された長岡が廟所とされ、
以後は歴代富山藩主の墓所となっています。


長岡御廟(初、4、5、8~12代)」。
長岡御廟は長岡御廟墓地の中央にあり、
初、4、5、8~12代の墓のある区画と、
2、3、6、7代の墓の区画に分かれます。

まずは初代の墓のある区画から。

贈正四位侍従兼淡路守
         菅原朝臣利次之墓」。
門を入ると現れる初代前田利次の墓。
幼少時より兵学を好んでいたとされ、
立藩すると富山城を仮藩庁とし、
百塚への築城を幕府に願い出ます。
しかし資金不足が明らかとなると、
百塚城の新規築城を断念せざるを得ず、
借用していた富山城を譲り受けて、
正式に藩庁と定めました。
その際に領地交換で富山が自領となり、
富山城の改修や城下町の整備が行われ、
藩政の基礎が築かれています。


従四位下行出雲守菅原朝臣利隆之墓」。
4代前田利隆の墓。
兄で3代藩主の前田利興の養嫡子となり、
利興の隠居に伴い家督を相続。
悪政で財政難を招いたとされています。


従四位下行出雲守菅原朝臣利幸之墓」。
5代前田利幸の墓。
父利隆の死去によって家督を継ぎ、
財政難の解消する為に尽力していますが、
改善には至らなかったようです。


従四位下行出雲守菅原朝臣利謙之墓」。
8代前田利謙の墓。
6代前田利與の長男でしたが、
家督は5代利幸の長男前田利久が継ぎ、
利久に実子が無かった為に養嫡子となり、
利久の死去に伴い家督を継ぎました。
財政難に積極的な改革を行っていますが、
大きな効果は得られなかったようです。


贈従三位侍従兼淡路守
         菅原朝臣利幹之墓」。
9代前田利幹の墓。
大聖寺藩5代前田利道の八男で、
8代利謙の長男前田利保が幼少であった為、
利謙の養嫡子となって家督を相続。
財政再建の為に石田小右衛門を招致し、
五ヶ年計画で改善を図りますが、
目立った効果は得られませんでした。


贈従三位侍従兼長門守
         菅原朝臣利保之墓」。
10代前田利保の墓。
8代利謙の長男でしたが幼少だった為に、
9代は養子の利幹が継いでおり、
利幹の養嫡子となって10代藩主となりました。
博物大名として知られて特に本草学を好み、
薬草に関連した多くの著作を残しています。
財政再建の為に産物方を設置し、
産業を奨励した他に流通も統制。
六男前田利友に家督を譲って隠居しますが、
藩政に関与し続けました。


従四位下行出雲守菅原朝臣利友之墓」。
11代前田利友の墓。
父利保の隠居により家督を継ぎますが、
国許の父や江戸の母毎木(利保側室)が後見。
次第に利保派と毎木派が争うようになり、
お家騒動に発展することになりますが、
利友は20歳で死去しています。


従二位前田利聲之墓」、
従四位下侍従前田利保室寳壽墓」。
12代前田利聲の墓と10代利保正室の墓。
兄の11代利友の死により家督を相続。
この利聲も毎木の子であった為、
派閥争いは変わらず継続しています。
利聲は母と結託して利保派と争いますが、
利保は宗家の力を借りて毎木を蟄居させ、
利聲を藩政から遠ざけました。
そして利保が藩政を掌握する事になり、
利保の死後は宗家の圧力で隠居させられ、
加賀藩主前田斉泰の十一男前田利同が、
13代富山藩主となっています。

1つ目の区画の藩主の墓は以上。
紹介は年代順にしましたが、
墓の配置は順番ではありません。
配置は左より、
10、8、4、初、11、9、5代で、
右の隅に12代の墓があります。

2つ目の区画へ。

長岡御廟(2、3、6、7代)」。
初代の区画よりやや小さめの敷地。
こちらは左より6、2、7、3代ですが、
木が墓の正面に生えていたりしており、
なんだか鬱蒼としています。


贈従三位大蔵大輔菅原朝臣正甫之墓」。
2代前田正甫の墓。
初代利次の次男で父の死後に家督を相続。
悲願であった百塚城築城が断念された為、
百塚を望む長岡を墓所に定めました。
新田開発や産業奨励に尽くし、
反魂丹などの製薬業も推奨しており、
越中売薬の基礎を作っています。


従四位下行長門守菅原朝臣利興之墓」。
3代前田利興の墓。
枝に覆われてどの角度で墓が見えません。
利興の代で財政悪化が始まったようですが、
彼自体は積極的に藩政改革を行っています。
その甲斐なく財政難となった為が、
突如として土蔵に籠ってしまいました。
これを重く見た宗家の加賀藩は、
利興を強制隠居させてしまいます。
心なしか木の枝に隠れている気も・・。


従四位下行出雲守菅原朝臣利與之墓」。
6代前田利與の墓。
」と「」で3代と間違えそうです。
4代利隆の四男で5代利幸が死去した際、
実子利久が幼少だった為に家督を相続。
藩校広徳館を創設していますが、
慢性的な財政難に悩まされています。


従四位下行出雲守菅原朝臣利久之墓」。
7代前田利久の墓。
こちらも正面に大きな木が生えています。
5代利幸の長男として生まれましたが、
利幸が死去した際に幼少であった為、
6代は叔父利與が就任して養嫡子となり、
利與の隠居に伴い家督を継ぎました。
10年の治世の後に死去しており、
利與の子利謙を養子としています。

以上、富山藩主12代を紹介しましたが、
最後の13代はここにはありません。
上記したように宗家の干渉が入り、
13代藩主は宗家から迎えられました。
この為に富山藩家臣団は混乱し、
家臣間での派閥争いの末に、
城内で家老が惨殺される事件まで発生。
宗家の影響下のまま維新を迎えます。

ちなみに強制隠居させられた利聲の三男は、
前田男爵家の養子となった前田利功
その嫡男前田利貴陸軍大尉となり、
大東亜戦争に出征しています。
曲がった事が嫌いな人物であったとされ、
現地民に慕われる善人だったようでしたが、
スパイを拷問したと蘭軍に裁判にかけられ、
現地民の有利な証言を得られるも、
不当な判決によって死刑となり、
歌を歌いながら堂々と銃殺されました。
蘭兵は良家の利貴に反感があったようで、
免罪の可能性は極めて高かったという。
利貴は辞世の句を二首読んでいます。
国のため棄つる命は惜しまねど
       心に祈るはらからの幸
身はたとえ南の島に果つるとも
        留め置かまし大和魂
坂本龍馬吉田松陰の句からの発想で、
涙腺を刺激しつつもユーモアのある辞世。
傾奇者でもあった前田利家の末裔として、
立派な最後を遂げたようです。

この長岡御廟墓地は一般の墓所でもあり、
どの墓も墓石が大きいと感じました。
地方によって墓にも特色があるのですが、
※例えば長崎県では文字を金色にするなど。
どうも富山県民は墓を高く造るようです。
これは納骨室が地上にあるからだそうで、
雨雪が多い為に地下に納骨してしまうと、
水没してしまうからとのこと。

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