山形県米沢市 堂森善光寺

2度目の米沢訪問。
まずは幕末と全く関係はありませんが、
前田慶次郎ゆかりの堂森善光寺へ。

僕が前田慶次郎を知ったのは、
当然のように漫画「花の慶次」からで、
原作の小説「一夢庵風流記」も読んでいます。

前田慶次郎は無名の戦国武将でしたが、
この作品で知名度と人気を挙げ、
今では人気トップランクの武将となりました。

慶次郎は滝川一族の出身でしたが、
前田家当主前田利久の養子となっており、
前田家を継ぐ事になる予定でしたが、
織田信長が強引に家督を前田利家に譲らせ、
前田家を継ぐ事はなくなりました。
その後、慶次郎は前田家で多くの武功を挙げ、
利家に5千石を与えられていますが、
突如として出奔して京で浪人となり、
多くの文化人らと交流して過ごし、
後に上杉景勝に仕えています。
関ケ原の戦いの前哨戦慶長出羽合戦で活躍し、
上杉家の米沢への減転封に従って居を移し、
晩年は「史記」に注釈を入れたり、
和歌や連歌を詠むなどして暮らしたという。

その前田慶次郎の慰霊碑のある堂森善光寺。

本堂」。
堂森善光寺は平安時代創建とされますが、
二度の火災で記録が失われており、
正確な寺歴がわからないという。


阿弥陀堂」。
本堂は明治期の再建ですが、
こちらは寛延3年(1750)の再建のもの。
当時は茅葺屋根でしたが、
トタン葺を経て銅板葺となっています。


前田慶次郎公供養塔」。
昭和55年に建てられたもの。
とはいえ「花の慶次」より前に建てられており、
人気にあやかって建てたものではありません。
実は前田慶次郎の晩年は諸説あり、
①米沢で暮らした後に病を得た為に辞し、
保養の為に大和国へ移った後に京へ戻り、
前田利長に大和国刈布に蟄居させられ、
そこで死去したというものと、
②米沢の堂森に隠棲して暮し、
肝煎太郎兵衛宅で死去したというもの。
もちろん米沢では後者の説が支持され、
亡骸は一花院(廃寺)に葬られて、
位牌は堂森善光寺に納められたとのこと。
墓所は廃寺、位牌も火災で焼失しており、
何も残っていないのが残念。


慶次の力石」。
慶次郎が里人と力試しをしたという。
まあこういうのはお約束ですね。
腰掛石と同じようなもの。

墓地のある裏山を登って月見平へ
なかなか急な山道でした。
道しるべが朱槍をモチーフにしており、
センスが良いなと感じました。

月見平」。
慶次郎が里人や友人を招き、
月見を楽しんだとされる場所です。
ひょうたんの形をした平地。

伝説的逸話の多い武将なのですが、
系譜は途絶えていますので、
幕末期に子孫がどうこうという話も無し。
誠に残念です←だがそれがいい。

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 慶次郎の養父前田利久の墓があります。