愛知県新城市 半原陣屋跡

半原藩岡部藩安部家新政府に願い出て、
岡部から三河国半原に藩庁を移したもの。
元々岡部藩関東の所領よりも、
摂津や三河の所領が主でしたが、
旗本時代に置いた陣屋が岡部であり、
大名となってからは江戸定府であった為、
そのまま岡部を藩庁としていました。
徳川幕府が倒れて定府の必要がなくなり、
藩経営に岡部では都合がよくないので、
半原に移転した訳です。


半原陣屋跡」。
半原陣屋跡は広場となっており、
その中央の築山に跡碑が建立され、
敷地の隅に陣屋稲荷が残されています。


半原藩邸跡」碑。
旧半原士族達が建立した碑。
現在も子孫の方々が手入れしているという。


陣屋稲荷」。
陣屋には稲荷社がつきものですね。
御殿などは壊されがちですが、
稲荷社の多くは残っていたりします。


学聚館跡」。
北に歩いた畑に木製の標柱があります。
藩校として武芸の就将館(後偃武館)、
学問の学聚館を創設していましたが、
藩庁移転に伴い藩校も移転しました。
生徒は原則として藩士子弟でしたが、
平民も志願すれば入学が許されたようです。
約50人程の生徒が就学したようですが、
廃藩置県で廃校となりました。

資本主義の父とされる渋沢栄一は、
岡部藩領血洗村の豪農の長男。
父を手伝い藍玉製造や養蚕を行っており、
16歳の渋沢は岡部陣屋において、
役人に上納金について反発したようで、
この件を切っ掛けに、
渋沢は武士になると決意したという。

岡部藩領の多くは水田よりも畑地が多く、
藍玉や養蚕も盛んだった為に、
税を銭で納める「金納」が早くから行われ、
貨幣経済の発達した場所であったようです。
大河ドラマ「青天を衝け」では、
階級悪の象徴のように描かれていますが、
幼少時から藩の金納が身についていた事で、
渋沢が経済に強くなる遠因にもなりました。

半原藩となった頃には既に渋沢は無関係。
藩は領内の安定化を進めますが、
廃藩置県によって半原藩は消滅しています。

【岡部藩→半原藩】
藩庁:岡部陣屋→半原陣屋
藩主家:安部家
分類:2万石、旧譜代大名

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