下関市菊川町 田部市跡

田部赤間関街道北道筋の市場町。
慶長15年(1610)には32軒の市が並び、
月に1度の市が開かれていたとされ、
江戸時代中期には市屋敷は43軒となり、
幕末まで変化なく繁栄していました。

現在もそれ程の変化がないようで、
築100年以上の家屋も残っており、
古い街並みを残しているようです。


菊川町田部周辺。緑の線が北道筋。
青でぼかした辺りが田部市跡。


田部市跡」。
古い家屋が多く残る田部の街並み。
街道沿いに市が開かれていたようです。


お地蔵様」。
田部宿の南の入口にあるお地蔵様
寛政9年(1789)に設置されたもので、
関所のあった場所であったようです。

この菊川町辺りは小さな盆地となっており、
田園が広がっていたという。
そこから北へ行くと杢路子という里があり、
そこの村庄屋が正月の挨拶の為、
息子を連れて長府城下に出掛けます。
※田部は長府藩領。
険しい山道を抜けて峠を越えると、
眼下に広い盆地が広がりました。
山奥暮らしの息子は初めて見る光景に驚き、
父上、これが日本ですか?
 広いもんですのう
と言ったので庄屋は、
ばかたれ!ものを知らんにも程がある。
 日本はこの十倍も広い!おぼえちょけ!

と答えたので息子は、
そんならここは小日本ですね
と言ったとされ、
人々は菊川盆地を「小日本」と、
呼ぶようになったという。
これは盆地に対する愛称のようなもので、
実際に小日本という地名は存在しませんが、
道の駅や橋の名前に使われていたりします。
この民話は息子の無知だけではなく、
庄屋も大きさを誤認しているあたりが、
非常に面白いところですね。

■赤間関街道/萩往還の宿場町

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