大里宿は細川家小倉藩初代藩主細川忠興が、
本州の渡航に最適であると設置した宿場。
当時は本州への渡航は小倉で行われた為、
城下に大名行列が集中していましたが、
これを嫌う藩により大里宿が開かれてると、
大名達は大里宿で渡航するようになり、
江戸時代中期以降は約8割の大名が、
大里宿から渡航するようになります。
「長崎街道 門司往還 豊前大里宿」。
現地案内板より。
大里は[おおさと]ではなく、
[だいり]と読みます。
これは安徳天皇が居住した事に由来し、
天皇の御所である内裏があったとされ、
これが後の江戸時代に大里となります。
「門司赤煉瓦プレイス」。
JR門司駅からすぐの門司赤煉瓦プレイス。
煉瓦造りの工場や倉庫跡が保存され、
観光やイベントの会場になっています。
僕が子供の頃には対岸の下関にも、
赤煉瓦の建物が沢山あったのですが、
残念ながら全て取り壊されてしまいました。
それに比べで門司側は保存されて、
良好な観光資源になっています。
この写真の道沿いが街道筋。
「長崎番所址」。
赤煉瓦交流館となった倉庫の角にある石碑。
寛政12年(1799)に長崎奉行所が設置し、
玄界灘の密貿易の取り締まり及び、
唐貿易の代物の中継基地となりました。
「豊前大里宿址」。
更に進んだ倉庫の角にある石碑。
この辺りから北が宿場となっていた様です。
「大里宿跡」。
街道筋はそのまま道路となっており、
当時と変わっていませんが、
建物の殆どは建て替えられていますが、
多少の古い家屋が残っています。
「人馬継所址」。
人足や馬を手配する宿場の主要施設。
関門海峡がある為に手配し直されるので、
かなりの規模であった事が想像されます。
現在は民家の庭先に石標があるのみ。
「御高札・南郡屋跡」。
高札が建てられていた場所で、
右側は南郡屋と呼ばれた小倉藩の施設で、
各村への通達や打ち合わせを行った場所。
現在も古い建屋が建っていますが、
当時のものかはわかりません。
「重松彦之亟屋敷址」。
脇本陣を務めた重松彦之亟の屋敷跡。
柳河藩、薩摩藩の藩主一行は宿泊した他、
幕使や公卿の御用商人や、
伊能忠敬も宿泊した記録があります。
街道筋を外れて一本東側の道へ。
「永野九助屋敷跡」。
こちらも脇本陣を務めた永野九助の屋敷跡。
熊本藩、福岡藩、久留米藩等の御用達で、
建物は当時のものが現存している様子です。
再び街道筋へ。
「御在番役宅・浜郡屋跡」。
左側が港の検問や取締を行われた浜郡屋で、
右側がその在番役の役宅。
路地の突き当りに御番所もあったようです。
「本陣(お茶屋)址」。
八坂神社の鳥居の脇の碑。
鳥居の左側に建てられていたようです。
小倉藩によって設置された藩営の施設で、
大名が参勤交代で使用した他にも、
カピタンの江戸参府での宿泊や、
日田、長崎代官の赴任にも使われました。
「御番所址」。
船の出入りや渡海する人馬の取締を行い、
抜け荷のチェックなども行った番所の跡。
「大里村庄屋石原宗佑屋敷址」。
江戸中期の庄屋石原宗祐の屋敷跡。
宗祐は元文2年(1737)に庄屋となり、
飢饉に苦しむ村の為に新田開発に取り組み、
庄屋を辞任した後も私財で各地を開発。
猿喰地区や曽根地区に広大な新田を開き、
完成する頃には財産は殆どなかったという。
「大里の渡海口跡」。
街道筋が海岸と交わる辺りが渡海口跡。
海へ続く石段が残っていますが、
これが当時のものかは不明。
ここから対岸の堂崎の渡しに連絡しました。
大里宿は渡し場の宿場として栄えましたが、
後に小倉戦争での激戦地となっており、
江戸期の現存する建屋は殆ど無いようです。
■関連記事■
・下関市中之町 亀山八幡宮
参道下に堂崎の渡しがありました。
・下関市唐戸周辺 赤間関宿跡
西国街道の終点。
・福岡県北九州市 常盤橋と小倉宿跡
九州諸街道の起点。