山口県長門市 村田清風墓所

村田清風の墓所に久しぶりに訪問。
約7年前に訪問して以来です。


長門市三隅下周辺。村田清風墓所の場所。


墓所への入口。
JR山陰本線の線路沿いにありますが、
線路には柵などありませんのでご注意を。


村田清風墓所」。
少々登ると現れます。
村田家は長州藩大組91石取りの家柄。


故準番頭村田織部源清風
 同妻 進藤氏藤原梅子 之墓
」。
村田清風と妻梅子の墓。
清風は号で四郎左衛門順之と称し、
長州藩士村田四郎右衛門光賢の長男に生まれ、
藩校明倫館に学んで優秀な成績を修め、
江戸で塙保己一国学を学び、
更に兵学や洋学等も講究しました。
9代藩主毛利斉房に近習して以降、
13代藩主毛利敬親まで5代の藩主に仕え、
国許や江戸方で要職を歴任しています。
特に敬親の許で行われた天保の改革では、
家臣団の負債完済の政策、
特産品の専売制を廃止、
越荷方を設置するなどして財政を再建。
長州藩の財源を大いに潤わせました。
後に中風を患って隠居し、
回復後は子弟教育や著書を行いましたが、
執政周布政之助の要請で復帰。
再び改革に乗り出しますが、
椋梨藤太ら反対派の抵抗で失敗。
退陣して73歳で死去しています。


贈従四位大津唯雪
 同人妻 光子  墓
(左)」、
看雨村田峯次郎墓(右)」。
清風次男大津唯雪及び妻光子の墓と、
唯雪の次男村田峯次郎看雨の墓。
唯雪は村田次郎三郎と称し、
清風の長男村田信吉が病廃嫡した為、
村田家を相続しました。
長崎聞役山口代官蔵元両人役等を歴任し、
文久2年には京都留守居役に就任。
京都での周旋活動に奔走しますが、
八月十八日の政変で長州藩が京都を追われると、
三条実美七卿を護衛して帰藩します。
椋梨藤太ら俗論党の台頭によって捕らえられ、
慶応元年まで幽閉されていますが、
許された後は代官職等を歴任。
廃藩置県後は東京に移り住んで、
明治20年に死去しました。

村田峰次郎は大津唯雪の次男で、
村田宗家村田九兵衛の家督を継ぎ、
東京に出で和漢学や英独等を学びます。
明治17年に明治政府に出仕し、
伊藤博文らの憲法制定事務に参加。
衆議院議員を務めた後に毛利家に仕え、
藩史の編集を行いました。
その後は維新史料編纂会の顧問、
伊藤公伝記甲子殉難士伝品川子爵伝
近世防長史談等に携わり、
昭和20年に89歳で死去しました。


奥側にある村田家歴代の墓。
四郎左衛門四郎右衛門の俗名が多く、
当主が代々名乗っていたようです。

■関連記事■
山口県長門市 村田清風の生家&墓
 前回訪問の記事。ブログ初期の記事です。
山口県長門市 周布政之助墓所
 三隅にある周布政之助の墓所。
山口県長門市 竹内正兵衛墓所
 三隅にある竹内正兵衛の墓所。