天満宮は菅原道真を祀る神社。
道真の死後に雷、大火、疫病等、
平安京で天変地異が相次いで起こり、
道真に敵対した者の多くが、
清涼殿の落雷等で死亡した事から、
道真の怨霊が雷神となったと考えられ、
天神として祀られるようになったもので、
全国に約1万2000社もあるという。
防府天満宮は道真死後翌年の創建で、
日本初の天満宮である事から、
総本社の大宰府天満宮、北野天満宮と並び、
日本三大天神とされています。
※諸説あり。
「大鳥居」。
防府天満宮の大鳥居前は西国街道及び、
萩往還の追分となっており、
宮市の門前町の中心地として、
天下御物送場、目代馬継所、
高札場等が置かれていたようです。
表参道に面した両側には9つの社坊が並び、
※西側に大専坊、西林坊、東林坊、
密蔵坊、会所坊、
東側に圓樂坊、等覚坊、乗林坊、千蔵坊。
それらを総称して酒垂山萬福寺としましたが、
現在は全て廃寺となっています。
「暁天樓」。
圓樂坊跡地に移築された藤村屋の建物の一部。
圓樂坊は9つの社坊のひとつで、
細川幽斎が連歌百韻の興行を催したり、
石田三成が宿泊したりという逸話もあります。
藤村屋は宮市宿の大旅籠で、
9代当主藤村孫七は尊攘の志高く、
投宿した志士達を支援したとされ、
この暁天樓は一階は漬物置き場ですが、
二階に隠れ座敷があるという。
元々は適義樓と呼ばれていましたが、
山縣有朋によって暁天樓に改称。
昭和30年に老朽化で解体されていましたが、
昭和58年に圓樂坊跡地に復元されました。
「大専坊跡」。
圓樂坊跡地向かいにある大専坊の建物。
9つの社坊のうちこの大専坊が別当とされ、
明治元年の神仏分離令で社坊が廃された後、
防府天満宮によって買い戻された為に、
現在もその建物の旧態を留めており、
別当寺院の建物の残る例として、
全国的にも貴重なものとなっています。
元治元年に遊撃軍の本営となっており、
京都進発への準備が進められたとされ、
これを阻止する為に高杉晋作が来訪し、
総督の来島又兵衛と激論を交わしたという。
※晋作と来島の会議は藤村屋で行われたとも。
「楼門」。
豪華な朱塗りの楼門。
昭和27年に火災で焼失しており、
現在のものは昭和38年に再建されたもの。
「拝殿」。
こちらも再建されたものですが、
国の登録有形文化財に登録されています。
菅原道真は天満大自在天神として神格化され、
天神さまとして崇められていますが、
学問の神として知られている他、
雷神でもあった為に豊穣の神としても祀られ、
※稲妻(稲の妻)は雨と共に発生する為、
農作物の成育に欠かせないものであった。
農家での信仰も篤かったという。
また左遷されても皇室を慕い続けた事から、
楠木正成と共に尊皇思想の象徴となって、
高杉晋作ら志士にも信仰されました。
「春風楼」。
長州藩10代藩主毛利斎煕により、
五重塔の建立が開始されましたが、
資金難で工事が一時中止となり、
後の明治6年に計画を変更させて、
重層の楼閣として完成されたもの。
楼上からは防府市街が一望できます。
「野村望東尼の像(左)」、
「望東尼歌碑(高杉東行合作)(中央)」、
「望東尼献歌碑(右)」。
女流勤皇詩人野村望東尼の像の歌碑。
望東尼は晋作の死後は防府に移り、
余生を過ごしました。
そして三田尻で倒幕軍の船出を見送った後、
必勝を祈願して7日間断食しながら参拝し、
一日一首の歌を奉納しています。
献歌碑はその1日目に詠んだ歌。
もののふのあたに勝坂越えつつも
祈るねきことうけさせたまへ
「梅屋七兵衛句碑」。
萩の商人梅屋七兵衛が建てた句碑。
梅屋は酒造業の傍ら武具も取り扱っており、
藩命で上海に渡って鉄砲千挺を購入し、
イギリス船で仙崎に帰還しました。
天神を篤く信仰していた七兵衛は、
無事務めを果たした事を感謝し、
この碑を建立したようです。
「毛利重就公像」。
長州藩7代藩主毛利重就の銅像。
長府藩6代毛利匡広の十男として生まれ、
8代藩主となっていましたが、
長州藩6代毛利宗広の早逝で宗家を継ぎ、
藩の財政再建に着手しました。
新田開発で得られた収入で撫育方を設立し、
築港や特産品の奨励を行っており、
幕末動乱期の軍資金を蓄える基礎を築き、
長州藩中興の名君とされています。
隠居後は三田尻御茶屋で余生を過ごし、
寛政元年(1789)に死去しました。
訪問時は年末であった為、
初詣の準備がされていました。
正月三ヶ日には約30万人が参拝するようで、
今も変わらぬ賑わいをみせるようです。
■関連記事■
・山口県防府市防府天満宮 防府紀行③
前回訪問時の記事。
・福岡県太宰府市 太宰府天満宮
菅原道真を祀る天満宮の総本社のひとつ。
・下関市吉田 奇兵隊陣屋の守護神
奇兵隊陣屋裏にあった天神社跡。