長州藩は直轄地を宰判という行政区に分け、
代官を置いて行政にあたらせていました。
宰判には勘場と呼ばれた役所が設けられ、
租税徴収、治安維持、裁判等が、
そこで行われています。
「花岡八幡宮御神幸祭礼図絵馬(部分)」。
花岡宰判は都濃郡の藩領を支配した宰判で、
都濃宰判とも呼ばれています。
上の絵馬のように勘場と御茶屋が併設され、
本陣の役割も果たしていました。
「花岡宰判勘場跡/御茶屋跡」。
石垣と槇柏が遺構として残っています。
「花岡勘場跡碑(右)」、
「天然記念物 花岡ノ槙柏(中)」、
「春雨桜(左)」。
設置されている石碑群。
そのひとつは勘場の跡碑で、
残りふたつは御茶屋に生えていた木の碑。
花岡宰判勘場は都濃郡5ヶ村を支配し、
代官は年3回春秋冬に萩から出張して来て、
重要な決裁を行っていたようで、
日頃は大庄屋が代役を務めていたという。
毛利敬親が文久元年の参勤で、
その途中の福川宿で病を患い、
花岡宿に着いた頃に更に悪化した為、
約2週間花岡で静養する事となります。
その折に庭の桜を眺めたようで、
樹下のソテツが花の眺めを妨げることを、
病床で心配していたという。
後にこの逸話から敬親公遺愛の桜として、
敬親の雅号春雨から[春雨桜]と名付け、
この記念碑が建立されています。
碑の裏面は楫取素彦の碑文とのこと。
しかしながら桜は枯れてしまったようで、
跡地に小さな桜が植えられていました。
「花岡ノ槙柏」。
樹齢480年のビャクシン。
下松市指定の天然記念物で、
一時期は国の指定も受けていたという。
勘場の遺構以外にも貴重な木のようです。
大砲が2門置かれていますが、
小さいですがレプリカではない模様。
由緒などはわかりません。
慶応2年に第二奇兵隊の大部分が脱走し、
倉敷代官所及び浅尾陣屋を襲う事件が発生。
この事件は幕府により鎮圧されますが、
敗走した脱退隊士達は長州藩領へ逃げ帰り、
捕縛されて処刑されました。
この花岡宰判勘場にも関係者6名が出頭、
吟味の後に柊処刑場に送られています。
■関連記事■
・岡山県総社市 浅尾陣屋跡
脱退隊士らが襲った陣屋跡。
・周防大島町 楢崎剛十郎顕彰碑ほか
脱退を止めようとして殺された幹部。
・山口県下松市 花岡宿跡
西国街道の宿場町。