花岡八幡宮は和同2年(709)創建の八幡宮で、
宇佐八幡宮より勧請して分霊を祀ったところ、
全山が一夜にして花を咲かせたと伝えられ、
それより鎮座地が花岡となったとされます。
また古来より岡の端であった為に、
端岡と呼ばれていましたが、
鎮座に伴い華やかな花岡に変えたとも。
守護大名大内家歴代当主から信仰され、
後には豊臣秀吉、歴代毛利家の崇敬も受け、
西国街道の旅人も訪れるようになり、
宿場と共に大いに栄えたようです。
「一の鳥居」。
街道沿いにある一の鳥居。
参道は街道と直角に真っすぐ伸びて、
二の鳥居をへて約200段の石段へ。
山麓の閼伽井坊へ。
「閼伽井坊」。
かつて花岡天満宮は社坊九ヶ寺を擁しており、
この閼伽井坊はその社坊で現存する唯一の寺。
閼伽とは仏様に供える清浄な水のことで、
八幡宮や大名の御用水とされており、
その水を加持されれば万病に効くとされました。
唯一残ったのは水を守っていたからでしょう。
「弘鴻石碑」。
長州藩の和算家弘鴻の顕彰碑。
代々花岡宰判の番所付の家柄で、
幼少より数学を好み暦法にも通じていたという。
慶応2年の第二次長州征伐で国境を塞がれた為、
他国より諸物資が入らなくなりますが、
暦もそのひとつで民衆は大いに困っていました。
これに弘は自ら暦を作成して代官に提出。
暦は藩主毛利敬親に届けられます。
敬親はこれを民の為に作り変えよと命じ、
種蒔の栞と名付けて国内に配布されました。
それを機に山口明倫館の数学教授に迎えられ、
後に師範学校教諭も務めています。
山麓には花岡天満宮もありますが、
写真撮っていないので割愛。
約200段という石段。
※数えていません。
石段の先には随神門が聳えます。
神仏分離以前は仁王門と呼ばれていたという。
「閼伽井坊塔婆」。
随神門をくぐると現れる多宝塔。
藤原鎌足が創建した日本十六塔の一つとされ、
現存のものは室町時代中期に再建されたもの。
閼伽井坊が管理しているようです。
国指定重要文化財。
「吉田松陰先生像」。
閼伽井坊塔婆の脇にある吉田松陰の像。
松陰が花岡八幡宮に参拝した記録は無く、
ゆかりはあまりないようですが、
奉納されている破邪の御太刀には、
松陰ら攘夷派志士と志を共にする氏子は・・
という説明がされています。
「拝殿」。
一見すると楼門のようにも見える拝殿。
仏教的要素の濃い建物ですが、
その後ろは幣殿、本殿と続く一般的な配置。
御祭神は誉田別命(応神天皇)、
姫大神(市杵嶋姫命、田心姫命、多岐都姫命)、
息長足姫命(神功皇后)の三座五柱です。
上記しました破邪の御太刀ですが、
安政6年の創始1150年にあたる式年大祭で、
氏子達が尊皇攘夷を祈願して奉納した大太刀。
菊池延寿派の刀工である藤原国綱の作で、
氏子達に途轍もなく大きい太刀を依頼され、
破邪顕正の太刀として製作したもの。
全長465cm、重量75kgと、
日本一大きい日本刀と言われています。
これで充分凄いし日本一なのに、
松陰の名を出す必要ないと思う・・・。
ちなみに破邪の御太刀は、
例祭等で年2回程度一般公開されるとのこと。
■関連記事■
・山口県下松市 花岡宿跡
花岡八幡宮前の門前宿場町。
・下関市長府 忌宮神社
宝物館に大太刀が展示されています。
・下関市中之町 亀山八幡宮
攘夷戦の舞台にもなった八幡宮。