下関市長府 本覚寺/菊舎とさつの墓所

本覚寺浄土宗の寺院。
創建は不明ですが元々は土肥山の麓にあり、
称念寺を称していたようですが、
文亀元年(1501)に現在地に移転し、
明暦3年(1657)に本覚寺と改称しました。

長府の街道筋は乃木さん通りと呼ばれ、
商店の並ぶ商店街となっていますが、
中之町から金屋町の通り沿い西側には、
多くの寺院が並んでいます。
※南側より立着寺(真宗本願寺派)、本覚寺、
 正円寺(真宗本願寺派)、法華寺(法華宗)、
 徳応寺(真宗本願寺派)、大乗寺(浄土宗)。



天馬門」。
商店と商店の間にある山門。
この山門は天馬門と呼ばれているようで、
柱には馬の彫り物が飾られています。


本堂」。
本堂は明治29年と33年に類焼して、
現在の本堂は明治36年に再建されたもの。
狭い長府城下の寺院である為か、
山門をくぐるとすぐに本堂となっており、
そのスタイルは上記寺院に共通しています。


一宇庵菊舎釈妙意大姉」。
女流俳人田上菊舎の遺髪墓。
山門をくぐったすぐ左手にあります。
菊舎は夫に先立たれた後に、
尼となって俳諧の旅に人生を捧げ、
女芭蕉を称されました。
文政9年(1826)に長府で死去しますが、
遺骸は帰依する真宗本願寺派の徳応寺に、
遺髪は田上家の菩提寺である本覚寺に、
それぞれ分けられて墓が建立されました。

隣は鏡山お初のモデル松田さつの墓。
お初は歌舞伎「鏡山旧錦絵」に登場し、
仕える中老尾上を死に追いやった岩藤を、
見事に討ち果たしていますが、
そのモデルとなったのが松田さつです。

松田さつの墓」。
長府藩士松田助八の娘に生まれますが、
助八は事情により浪人となってしまいます。
成長したさつは浜田藩江戸屋敷に奉公し、
中老岡本道の召使いとして働きますが、
道が同家の局の河合沢野の履物を、
間違えて履いてしまった事から争いが生じ、
道はその末に追いつめられて自害しました。
さつは主人の仇である沢野を短刀で刺し、
出頭して自らも死のうとしますが、
浜田藩はこの行為を正式な仇討ちと認定。
さつは道の実父岡本佐吾衛門の養女となり、
浜田藩士の神野某に嫁したという。
後に下総妙興寺に庵を結んで没したとか、
浜田で余生を過ごして亡くなったとか、
その晩年には諸説あるようですが、
この墓は松田家の菩提寺であった為、
親族によって建立されたものという。
周りの墓も親族のもののようです。


烈女佐津碑」。
さつの墓所の脇にある顕彰碑。
墓参りの人の自転車が置かれていますが、
どける訳にもいかないのでそのまま撮影。

この鏡山お初の演目は鏡山物として、
3月頃に演じられていたようで、
宿下がりの奥女中に大いに受けたという。
奥勤めで上役にいびられる日常で、
上役を刺し殺して罪に問われず、
しかも最後には昇進するという話は、
※物語ではお初は二代目尾上となる。
鬱憤を晴らす痛快な物語だったのでしょう。

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