東海寺の大山墓地は現在の寺域より遠く、
新幹線と京浜東北線の線路の挟まれた場所。
かつての東海寺境内の広さが窺えますが、
そこに日本鉄道の父井上勝の墓があります。
「沢庵和尚の墓」。
東海寺の初代住職沢庵宗彭の墓。
大山墓地にあります。
沢庵は出石の唱念寺で出家し、
後に同じく出石の宗鏡寺に移ると、
大徳寺の春屋宗園の弟子薫甫宗忠が、
宗鏡寺の住職に招かれた為、
沢庵は薫甫に師事しています。
その後に薫甫が大徳寺住持となると、
沢庵もこれに従って大徳寺に入り、
薫甫の師である春屋に師事。
後に大徳寺住持となりますが3日で退山。
郷里出石に帰ると宗鏡寺に庵を結び、
隠棲の生活に入っています。
後に徳川幕府の定めた寺院制度に反発し、
大徳寺の僧らと紫衣事件を起こしており、
この咎で上山藩に配流。
放免後に将軍徳川家光は沢庵に帰依し、
家光の求めに応じて江戸に赴き、
東海寺の住職となりました。
沢庵は74歳で死去。
墓碑は建ててはならぬと遺言した為か、
碑銘のない自然石の墓のようです。
この大山墓地の一番北側に、
井上勝の墓所があります。
「井上家墓所」。
日本鉄道の父と称される井上の墓は、
東海道新幹線が真横を走る場所。
まさに井上に相応しい墓所といえます。
鉄道記念物となっているのは可笑しい。
「故陸軍工兵大尉正五位勲五等 井上亥六
子爵夫人 井上宇佐子
正二位勲一等子爵 井上勝」。
鉄道官僚井上勝とその妻井上宇佐子、
早逝した息子の井上亥六の合葬墓。
長州藩士井上勝行の三男に生まれ、
文久3年に井上馨、遠藤謹助、山尾庸三、
伊藤博文と共に英国に留学しました。
※長州五傑。
英国では鉱山技術や鉄道技術等を学び、
明治元年に山尾と共に帰国。
長州藩で鉱山管理を任されていますが、
木戸孝允に乞われて新政府に出仕し、
初めは鉱山管理の仕事に従事しており、
新設された工部省に所属を移すと、
鉄道事業を推進しています。
鉄道庁長官を務めて多くの路線を開通させ、
後に退官すると汽車製造合資会社を設立。
帝国鉄道協会の3代会長に就任し、
鉄道院顧問にも就任していますが、
明治43年にロンドンを視察で訪れ、
そこで客死しました。
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