東京都品川区 清光院/中津藩奥平家墓所①

①/

清光院東海寺の元塔頭のひとつで、
奥平家細川家織田家永井家が、
有力檀家となり墓所としていました。
現在は細川家と織田家の墓所は改葬され、
奥平家と永井家の墓所が残っています。


清光院」。
交代寄合座光寺清左衛門の開基ですが、
創建の経緯等はよくわかりません。
座光寺氏は信濃国伊那郡の豪族で、
甲斐武田家に属していましたが、
織田信長甲州征伐で滅ぼされており、
当主座光寺為時逆さ磔となっています。
その子座光寺為時徳川家康に仕え、
交代寄合1400石として続いた家。

本堂裏手の墓地にはる奥平家の墓所。

奥平家墓所」。
大名墓域として都内有数の広さで、
その面積は596㎡とのことですが、
墓域には89基の墓碑が並んでおり、
有数の広さとはいえ些か狭く感じます。


六通院殿天眼道高大禅定門(中央)」。
宇都宮藩初代藩主及び、
中津藩奥平家初代当主奥平家昌の墓。
長篠城城主奥平信昌の長男として生まれ、
※母は家康の長女亀姫
父の信昌は関ケ原の戦いの功で、
加納藩10万石に加増されていますが、
信昌も宇都宮藩10万石を与えられ、
別家を興す事になっています。
※父の所領は弟の奥平忠政が相続しますが、
 その子奥平忠隆が無嫡で断絶しています。

家昌は藩の基礎造りを進め、
多くの浪人を召し抱えていますが、
やがて病を患ってしまい、
大坂冬の陣の参陣を辞退する事となり、
翌年に死去してしまいました。


玄光院殿海印道堪大居士」。
宇都宮藩2代、古河藩初代、
宇都宮藩初代(再封)、
中津藩奥平家2代当主奥平忠昌の墓。
初代家昌の長男として生まれ、
父の死去により僅か7歳で家督を相続。
後に古河藩11万石に加増転封され、
宇都宮藩には本多正純が入封しますが、
やがて釣天井事件で改易された為、
再び宇都宮藩に戻っています。
53年の治世の後に死去。


徳雲院殿奇峯道也大居士」。
宇都宮藩2代(再封)、山形藩初代、
中津藩奥平家3代当主奥平昌能の墓。
3代忠昌の長男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続しますが、
禁止された殉死を行わせた追腹一件
家臣間の刃傷事件とそれに関わる仇討等、
宇都宮興禅寺刃傷事件
 浄瑠璃坂の仇討

藩内が乱れた事を咎められ、
山形藩に2万石の減転封となりますが、
僅か4年の治世で死去しました。
性格は粗暴で問題も多かったようで、
出奔した家臣は40人以上もいたという。


自性院殿真凉道如大居士」。
山形藩2代、宇都宮藩初代(再々封)、
中津藩奥平家4代当主奥平昌章の墓。
福江藩4代五島盛勝の子に生まれ、
5代昌能の末期養子に迎えられて、
その死後に5歳で家督を継ぎました。
後に宇都宮藩に再々封されており、
23年の治世の後に早逝しています。


龍源院殿徳翁道見大居士」。
宇都宮藩2代(再々封)、
宮津藩初代、中津藩初代、
中津藩奥平家5代当主奥平昌成の墓。
4代昌章の次男として生まれ、
死去に伴い2歳で家督を相続し、
宮津藩を経て中津藩に転封となりました。
49年の治世の後に死去しています。


方廣院殿雲峰道端大居士」。
中津藩2代藩主(6代当主)奥平昌教の墓。
初代藩主昌成の次男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続し、
宝暦改革と呼ばれる藩政改革に着手。
奉行制度制定や目安箱設置、
宝暦札発行、運上役所設置、
農政改革倹約令等を積極的に行い、
12年の治世の後に死去しています。

つづく。
①/

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