①/②
つづき。
「興隆院殿悟渓道本大居士」。
中津藩3代藩主(7代当主)奥平昌鹿の墓。
2代藩主奥平昌敦の長男として生まれ、
父の死去に伴い15歳で家督を相続。
訴平賦均録を編纂して藩政改革に尽くし、
蘭学者前野良沢を抜擢して、
蘭学を保護して奨励しました。
「春徳院殿何屋道云大居士」。
中津藩4代藩主(8代当主)奥平昌男の墓。
3代昌鹿の長男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続しました。
若年の為に藩政は家臣らに専横されますが、
後に不正を行った家臣を罰し、
自らの考えで政治を行っています。
しかしすぐに天明の飢饉が発生した為、
藩は大きな被害を受けており、
失意の為か僅か4年で死去しました。
「龍徳院殿無方道應大居士」。
中津藩5代藩主(9代当主)奥平昌高の墓。
薩摩藩8代島津重豪の次男として生まれ、
4代昌男の末期養子として家督を相続。
蘭学好きが高じて蘭語も学び、
出島の商館長らと親交を結ぶようになり、
特にシーボルトとは親しく交流し、
シーボルトと気兼ねなく対面する為に、
家督を譲ったともされています。
「探源院殿心厳道轍大居士(中央)」、
「観光院殿蓮華逸堂大居士(左)」。
中津藩6代藩主(10代当主)奥平昌暢、
中津藩8代藩主(12代当主)奥平昌服の墓。
※昌暢の碑銘は破損しており、
側面の享年より断定しました。
6代昌暢は5代藩主昌高の次男に生まれ、
父の隠居に伴い家督を相続しましたが、
僅か7年で父に先立って死去しています。
7代奥平昌猷は5代昌高の五男ですが、
歴代の中で唯一中津に墓所があり、
この清光院に墓はありません。
8代昌服は6代昌暢の次男に生まれ、
7代昌猷の養嫡子となり、
養父昌猷の死去に伴い家督を相続。
黒船来航では鎖国攘夷を唱えていますが、
佐幕派の藩主であったという。
鳥羽伏見の戦いが新政府軍勝利で終わると、
新政府に恭順の意を示し、
藩兵を戊辰戦争に派遣しますが、
家督を譲って同年に隠居。
廃藩後は東京に移住しており、
30年の隠居生活を送りました。
「従五位伯爵奥平昌邁墓」。
中津藩9代藩主(13代当主)奥平昌邁の墓。
宇和島藩8代伊達宗城の四男に生まれ、
8代昌服の養子となって、
養父の隠居により家督を相続します。
新しい時代の藩政改革に取り組み、
人材登用等で斬新な方法を試しますが、
廃藩置県により免官されて東京に移住。
慶應義塾で学んだ後に、
福澤諭吉や小幡篤次郎に勧められ、
米国ニュージャージー州に留学します。
帰国後は東京府会議員となり、
翌年には東京府芝区長に就任。
また中津市学校を設立するなど、
旧領や元藩士らの為に尽力しますが、
肺炎により30歳の若さで死去しました。
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■関連記事■
・大分県中津市 中津城
中津藩奥平家の居城跡。
・大分県中津市 自性寺/奥平昌猷墓所
7代藩主奥平昌猷の墓。
・大分県中津市 中津宿跡
中津城下の宿場跡。