清光院には高槻藩永井家の墓所もあります。
「清光院」。
清光院は17あった東海寺塔頭で、
現在も当初の場所にある唯一の寺院。
この寺の奥平家墓所は有名ですが、
もうひとつの高槻藩永井家の墓所も、
充分に立派なものです。
「高槻家墓所」。
歴代藩主及び一族の49基が並ぶ墓所。
高槻藩永井家の墓所はここ以外も、
京都の悲田院にもありますが、
双方共に良好に残されています。
門の正面にある宝篋印塔が目立ちますが、
これは2代永井直時のものなので、
初代永井直清より紹介します。
「宗明院殿月峯空閑大居士(右)」、
「天真院殿月江宗閉大居士
圓乘院殿諦空宗賢大居士(左)」。
初代藩主永井直清の墓と、
5代永井直英及び8代永井直珍の墓。
直清は永井宗家初代永井直勝の次男で、
2代将軍徳川秀忠の小姓を経て大名となり、
2万石で山城長岡藩を立藩。
その後も加増を受けて高槻藩に転封し、
畿内の要職を務めました。
隣は5代直英と8代直珍の合葬墓で、
双方の没年も離れている為、
後に建てられた供養墓と思われます。
「本光院殿心渓宗安大居士(中央)」。
2代藩主永井直時の墓。
初代直清の嫡男永井直吉の長男で、
父の早逝によって嗣孫となり、
祖父の死後に家督を継ぎましたが、
9年の治世で死去しています。
墓所内唯一の宝篋印塔型の墓碑。
「真淨院殿月渓宗印大居士
正雲院殿慧林宗光大姉」。
3代藩主永井直種とその正室の墓。
宗家2代永井尚征の四男に生まれ、
直時に継嗣が無かった為に養子となり、
その死後に家督を継いでいます。
文武に優れて絵も嗜んだようですが、
15年の治世の後に死去しました。
「高松院殿節渓宗貞大居士」。
4代藩主永井直達の墓。
宗家5代永井直圓の長男でしたが、
直種の実子直英が幼少であった為、
宗家長男ながら養子となって家督を相続。
11年の治世で死去しています。
※手違いで画像消失しました。
再訪問した際に添付致します。
「三径院殿菊隠宗芳大居士
本眞院殿月洞宗郭大居士(左)」、
「瑞鳳院殿徳翁宗壽大居士(右)」。
6代永井直期及び7代永井直行の墓と、
11代藩主永井直与の墓。
6代直期と7代直行も合葬墓なので、
後に建立された供養塔でしょう。
10代直与は9代永井直進の長男で、
父の隠居に伴い家督を相続。
畿内天領5万900石を預かり、
京都火消役にも任じられており、
幕府より信頼されていたようです。
※手違いで画像消失しました。
再訪問した際に添付致します。
「法心院殿瑞林宗雲大居士」。
9代藩主永井直進の墓。
代は前後していますが、
直進は8代直珍の嫡男として生まれ、
直珍の死去に伴い家督を相続。
7代8代と藩主の短命が続きましたが、
39年の長期にわたり藩主を務め、
幕府より京都火消役を拝命しています。
「従五位大江姓永井直輝髪墓」。
11代藩主永井直輝の遺髪墓。
こちらは遺髪墓で墓石も少し新しい。
直輝は隠居後13年生きており、
その死去は維新後の明治7年である為、
このような神式の墓になっています。
直輝は10代直与の次男に生まれ、
直与の隠居により家督を相続。
彼の時代より幕末に突入しており、
先々代より拝命していた京都火消役を務め、
幕府より国難について意見が求められると、
鎖国維持と蘭国通商の強化を提言しました。
文久元年に隠居。
※手違いで画像消失しました。
再訪問した際に添付致します。
「真諦院殿本空宗継大居士」。
12代藩主永井直矢の墓。
杵築藩9代松平親良の次男として生まれ、
11代直輝の養子となり家督を相続。
幕府より京都火消役や二条城警備を拝命し、
徳川譜代として幕府を補佐しましたが、
慶應元年に病死してしまいます。
※手違いで画像消失しました。
再訪問した際に添付致します。
「従二位子爵永井直諒之墓(右)」、
「永井房子墓(左)」。
13代藩主永井直諒と妻房子の墓。
旗本永井直次の三男として生まれ、
12代直矢の末期養子となって家督を相続。
幕末も最末期に藩主に就任しますが、
譜代大名として京都火消役や、
孝明天皇の一周忌での泉涌寺警備を担当。
その後は日和見の姿勢で態度を保留し、
鳥羽伏見の戦いで旧幕軍が敗北すると、
上洛して新政府に恭順しました。
大正8年、死去。
永井家の大名は他に宗家の櫛羅藩永井家、
加納藩永井家がありますが、
墓所は整理されて累代墓となっており、
これ程の墓所は残っていません。
そういう意味ではかなり貴重な墓所です。
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高槻藩永井家の京都墓所。
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加納藩永井家の墓所。
・東京都中野区 櫛羅(大和新庄)藩永井家墓所
櫛羅藩永井宗家の墓所。