兵庫県朝来市 山口護国神社

文久3年10月。
平野国臣河上弥市らは天誅組の変に呼応し、
澤宣嘉を擁して生野で挙兵しました。
同月12日未明に彼らは生野代官所を占拠。
彼らは農民に呼び掛けて兵を募ると、
たちまち2千人が集結します。
しかし幕府側の対応は素早く、
出石藩姫路藩は翌日に出兵した為、
河上ら強硬派13名は妙見山に出陣。
しかし主将の澤は13日夜に脱出し、
妙見山に陣を張った河上弥市らは、
これを聞いて討死の覚悟を決めます。
※平野は兵を解散して脱出しますが、
 養父豊岡藩に捕らえられ、
 京都の六角獄舎へ送られています。

しかし翌日には農兵らにこれが知れ渡り、
山麗に竹槍を持って集まって来た為、
彼らは山を下りて山伏岩で自刃しました。


山口護国神社」。
彼らが切腹した地に建立された護国神社
生野の変の殉難者及び、
明治維新以降の戦役殉難者を祀る為、
旧朝来町佐中出身の元志士原六郎が、
多額の寄付を行い建立しました。


殉節忠士之墓誌銘(左)」、
殉節忠士之墓(中央)」、
十七士の名が刻まれた碑(右)」。
慶応4年2月に山陰道鎮撫総督西園寺公望が、
但馬入りした際に揮亳して建立された墓碑と、
参謀折田年秀による墓誌銘。
そして自刃した13人と他の殉難者4名で、
正義十七士として名が刻まれた碑が並びます。
残念ながらその全ては風化で読めません。
一応わかる範囲でいえば、
戸原卯橘南八郎(河上弥市の変名)、
白石廉作肥田左衛門中原太郎等。


社殿」。
原六郎の寄附により建立された社殿。
原は元々進藤俊三郎と称した志士で、
生野の変に参加して敗れ、
潜伏中に原六郎と改名しました。
長州藩に匿われて幕府軍と戦った後に、
戊辰戦争山国隊司令士として活躍。
欧米に留学した後に銀行家となり、
その他の事業でも財を築き、
晩年は故郷の発展に尽くしたようです。


正義十三士自盡之址」。
13人が自刃した山伏岩。
神社創建の際に整地された模様。
後から下に行って見てみます。


正義十七士之神霊」。
山伏岩の隣に建てられている碑。


山伏岩」。
先程の山伏岩。
13人はこの岩に「今月今日討死」と血書し、
岩陰で次々と自刃して果てたという。
戸原卯橘は全員を介錯した後に岩へ登り、
腹を一文字に切って喉を突き、
力尽きて転がり落ちたとされます。
現地説明板では自刃は8名で、
残りは付近で討死したと書かれており、
その最後の様には諸説ありますが、
13人が壮絶に死んだのは間違いありません。

他に武田芳太郎翁頌徳碑がありましたが、
この人は但馬志士傳を書いた人物で、
生野の変の研究者だったようです。

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 河上弥一の墓碑があります。