山田顕義は松下村塾最年少の門下生。
※幕末期の名は山田市之丞。
高杉晋作、久坂玄瑞ら先輩らと共に、
尊皇攘夷運動に邁進しており、
後に大村益次郎から兵学を学び、
幕長戦争、戊辰戦争、箱館戦争で活躍。
用兵に非凡な才能を発揮し、
戦後は国軍の建設に尽力しますが、
山縣有朋らとの軋轢により、
次第に司法に転じるようになります。
西南戦争では別働第二旅団を率い、
その勝利に多大な貢献をしていますが、
以後は司法整備の道に進み、
第1次伊藤内閣、黒田内閣、第1次山縣内閣、
第1次松方内閣と連続して司法大臣を務め、
また日本大学の前身日本法律学校を創設し、
日本大学の学祖となっています。
明治24年に体調を崩し司法大臣を辞任し、
翌年11月に山口帰省から東京に戻る途中、
生野の変で自刃した河上弥市の墓参りと、
※河上は山田のいとこ。
生野銀山の視察の為に生野を訪問。
墓参の後で坑道を視察しますが、
坑内で突然倒れてそのまま死去しました。
「山田顕義終焉之地」碑。
JR生野駅西口を出るとある終焉之地碑で、
日本大学創立百周年記念に建立されたもの。
生野銀山は外国人技師の指導を仰ぎ、
いち早く近代化を果たしていた為、
これを視察する為に坑道に入りますが、
山田は突然急死してしまいます。
死因は脳溢血による急死とされましたが、
当時より暗殺や事故死の噂もあったという。
後の昭和63年に日大による墓所整備で、
学術調査が行われた際、
山田の頭蓋骨に大きな外傷を発見。
事故の可能性が高いとの結果が出たとのこと。
死因が隠された理由もミステリーですが、
いとこが壮絶な自刃を遂げた地が、
終焉の地となったのもミステリーですね。
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・東京都文京区 護國寺
山田顕義の墓所があります。
・山口県萩市 楫取素彦旧宅/山田顕義誕生地
山田顕義の誕生地。
・山口県萩市 長寿寺
山田の碑文による河上弥一の碑があります。